11. ネット空間により変容したタコツボ化現象と、新しく生まれた視点と認識
以上の帰結としてネット空間で、タコツボ現象として集積形成される価値観は、ネット以前の環境よりも明確で密度が高く過激なものになりやすいと言えます。
これまでにタコツボ化現象とはネット環境によって生まれたのではなく、スピード化とパケット化により濃縮、集積されて他者からも認識可能なほど明確に変容しただけとしましたが、私たちがこのタコツボ化現象が問題であるという認識を持つに至るまでの過程で、新しく生まれたものがあります。もともとすでに社会の中に存在していたタコツボ化現象を、“重大な問題であるという認識”を私たちに与えたものこそが、本質的にはこのタコツボ化現象と称されるものの原因と言えます。
そのためにはまずこのタコツボ化現象が形作る価値観が何かを定義しなければなりません。これはネット以前からあったもので、人が自分の生きる社会の文化や個人の経験を元に獲得する、生活環境や風土性に基づいた局所的価値観であり、個人的偏見/性と呼べるものです。一般に“偏見”は否定的に語られがちですが、これは別の言い方をすれば局所的な価値観であり、人が特定の風土に定住生活をするにあたって個人や社会の有り様をその風土に最適化する過程で生まれる、民族性や文化から現象的に発生する価値観であり、その局所においては必然性と明確な根拠を持ちます。この地球上には一人として“普遍的な人間”はおらず、誰しもがいずれかの風土性を持ち局所的価値観と偏見をもつ個人であることを踏まえれば、タコツボ化現象として集積されて可視化される局所的な偏向を持つ価値観は、それぞれにそれの存在する確かな正当性を持っています。しかしその正当性と有効性はその局所、つまりそれの発生した“風土”という空間的制限をもった正当性です。この空間的制限をもった価値観が、ネット空間という風土性の無い場に持ち込まれることで生まれるのが“タコツボ化現象を問題と見る認識とその視点”です。
基本的にネット空間には特定の風土性はありません。通信環境による速度や電源供給のような制限、国によって特有のネット環境の制限などはありますが、情報の時系列はアーカイブ化されて時間の前後差は弱まり、2017年の時点では簡易的なテキストや低解像度の画像や動画であれば情報交換の可能なネット空間は、物理的な自然環境(いわゆるネット以外のフィジカル空間)に比べれば風土性は皆無といえる一様な空間として広がっています。そのフラットで普遍的な空間に人々はフィジカル空間に根拠と正当性を持つ局所的価値観を持ち込み、それぞれのタコツボと揶揄されるような“島”や“クラスタ”を作ってコミュニケーションをしています。
しかしネット空間に身を置き、コミュニケーションをして、情報のインプット、プロセス&アウトプットをする中で、人は風土性をもたないネット空間特有の価値観とその視点の獲得に至ります。この風土性をもたないネット空間から生まれる価値観は、風土性をもたないがゆえに局所的偏向をもたない、普遍的正論またはネット正論などと言えるものです。フィジカル空間とネット空間の二つのレイヤーを生きる現代人は、その価値観も風土に根ざした局所的価値観と、風土性の無いネット空間の普遍的正論をダブルスタンダードでもたざるをえません。ネット空間の登場によって新たに獲得された普遍的正論の視点から、ネット空間の登場によって濃縮され明確な形を持つに至った局所的価値観を見た時に認識されるのが、エコチェンバー、バブルフィルター i.e. タコツボ化現象問題といえます。
そしてこの問題の解決は局所的価値観(個人的偏見)の否定でも、普遍的価値観(ネット正論)の否定でもなく、それぞれの価値観をそれぞれの空間性と共に理解し、その有効適用範囲の認識を経て、価値観表明に関する空間的なコミュニケーションのリテラシーを獲得することにありそうです。
ネット空間の情報環境が生む思想のパケット化は、個人が異なる思想的要素を思考して思想にまとめる作業を放棄して、ネット空間で集合知的に伝達しあい活動する、集団的情報運動に思考の作業を委ねることといえます。ここで問題になるのが思考の動機の部分です。個人の思考では、自身の中にある矛盾する考えや異なる意見を統一して整合させたいという欲求が人にはあると考えられます。個人の身体は一つなので、一つの選択を決定するためにも複数の対立する考えを整合させる動機が働き、その整合の過程で極端なものは平均化され安定性ある思想になるといえます。しかしネット空間の集団的情報運動、集団的思考ではそれぞれに対立する思想を統一し整合を求める動機が生まれるのかはわかりません。その動機づけが生まれない場合それぞれの思想はそれぞれに極化をすすめることになりそうです。ネット空間において思想は極化し、エキストリームな思想や価値観を形成しますが、思想がパケット化した結果、個人はその極化した複数の思想の“島”“クラスタ”or “タコツボ”に同時に属し、もう一つのレイヤーのフィジカル空間では一つの身体に複数の異なる思想を持つ状態になります。一見それはネット以前と変わらない状態に見えます。しかしそれぞれの思想はネット空間を経ることで極化してしまっているため個人の中での意見、思想、精神の整合性を計ることが難しくなる可能性はあります。一つの身体に複数の独立する思想体があるというのは、身体と精神、感覚と思考の健全な整合に問題を有するかもしれません。もしそうであればネット空間においても思想の過剰な極化を抑制し、緩やかでも構わないので異なる思想間につながりと緩やかな整合性が必要になるのかもしれません。
オバマ時代は普遍的正論が局所的価値観を否定し、蔑ろにしすぎた感がありそのバックラッシュがトランプ現象といえます。なんらかの新しい価値観がこの二つの対立する価値観を共存させることができるとしたら、その獲得こそがインターネット以後、グローバル化以後の時代に必要な価値観なのかもしれません。もしかするとそれこそがK-holeがそのオリジナルテキストでノームコアと呼ぶものなのかもしれません。