シン・エヴァ感想-綾波中心 ネタバレ有り
“そっくりさんと三つの願い"
現状4回観たのですが、最初に観たときは”アヤナミレイ(仮称)”(以後そっくりさんと書きます。)は救われないのか〜という思いが残っていました。観終わってすぐは考察ブログや動画も見る気になれず、モヤモヤしたまま観賞翌日映画を反芻していたところ、実はそっくりさんがちゃんと救済されていたことにようやく気がつきました。
自分は一日置いてから気付いたのですが、おそらく多くの人は初回でわかってたんだろうと今考えると思います。2回目に観たときに気づいたのですが、実はかなり明らかにそのことは示唆されてました。もしかしたら自分のようにモヤモヤしている人もいるかもしれませんのでちょっと書いてみようと思います。今更ですが。
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綾波レイのクローンであるそっくりさんは、第3村での人々との触れ合いで感情と心を芽生えさせました。ですがクローンである彼女の身体は機能的な問題で第3村の環境では生き続けることができません。しかし彼女はそれを分かった上で彼女にとっては恐らく永遠に生きられるネルフではなく、いずれ死ぬことを定められた”有限の世界”である第3村で生きることを選びました。その結果として彼女がシンジの前でLCLに還元されて絶えた時、彼女は”三つの願い”を持っていました。
1、人になりたい。
2、母になりたい。
3、私になりたい。
の三つです。
まず1の願いである、人になりたいの話です。そっくりさんがLCLに還元された後、記憶や願いが具象化するマイナス宇宙で、シンジの前に髪の毛が長く伸びた綾波が登場します。
髪の毛のモチーフはそのシーンの少し前に説明されており、マリがアスカの散髪をするシーンで、正確な台詞は覚えていませんがアスカは”身体の他の部分は人間の機能を失っているのに髪だけは伸びちゃって面倒臭い”的なことを言います。するとそれに答えて博識なマリが”髪というのは人間の欲、煩悩、業などの象徴であり、アスカがまだ人間であることの象徴であり証拠。”的なことを言います。
するとそのセリフの直後になぜかアスカの眼帯が青色にきらりと光ります。第9使徒を封印しているアスカの眼帯が青く光る時は、使徒が活性化しそれを封印が抑制する時、あるいは単に使徒が活性化した時だろうと思います。だとすると何の意味も無くその会話の直後に眼帯が光ることはないだろうと思います。
これは直接的に描かれていませんので推測の域を出ませんが、おそらくそっくりさんはLCLに還元された後もなぜかその”個、心、人格”を保ち続け、アスカの左目に封印された使徒を通してなのか方法はわかりませんが、アスカとマリの会話を聞いたのだと思います。
アスカの使徒封印の眼帯が光ったと言うことはそっくりさんも映画後半の式波同様に使徒化していたか、あるいは使徒の力を使ったのかもしれません。以前の劇場版で巨大綾波(第二使徒リリス)が、パターン青なのにヒトだったこと、そっくりさんが第三村でLCL化した際に小さな十字の光が浮かんだことからも、そっくりさんの使徒(化)との関連の可能性は高い様に思えます。その為眼帯の青い光を綾波の存在と解釈することも出来るかもしれません。
そしてその後のマイナス宇宙でシンジが綾波に再会した時に綾波の髪がすっかり伸びています。それはそっくりさんがその願い、人格、感情、心を保持したまま綾波の一部として統合され、全ての綾波が統合された”全綾波レイ”とも言える姿に、マイナス宇宙の影響でそっくりさんの願いが反映された結果だろうと思います。そしてこのことにより結果的に、そっくりさんが人になりたいと願っていたことが示されているのだと思います。ですがそれはまだ果たされない望みである為に”願い”という形で現れています。
この髪の毛は実際のものでは無くイマジナリーであり、綾波(=綾波に統合されたそっくりさん)の果たされぬ願いの具象化です。
その為にシンジと綾波の一番最後の対話シーンで、シンジが”誰もエヴァに乗らなくていい世界、新しい人が生きていける世界に書き換えるよ”と伝えると、綾波はそれを了解し、綾波が人として、母として、自分として生きていける世界を受け入れます。すると次の瞬間綾波の長い髪の毛は消えて元の短い髪に戻り、赤ちゃんの人形も消えます。それがラストのプラットフォームシーン前の綾波最後の姿です。それは長髪と人形がイマジナリーだったことと同時に、綾波の果たされぬ願いが成就する世界を綾波が受け入れたことを意味するのだろうと思います。
2の母親になりたいという願いの芽生えは、まず第3村を案内された最初に松方さんの奥さん(妊婦さん)の大きいお腹をしげしげと不思議そうに眺め、トウジと委員長の子供であるツバメに興味津々で面倒を見、委員長がお乳をあげているときに自分の胸を不思議そうに触って委員長から”あなたにはまだ早いわよ”と言われ、そして村のねこが出産したときに初めて笑ったことで示唆されていると思います。
そして最後にシンジが綾波に会って対話をするシーンでは、その綾波は今度はツバメという名札のついた赤ん坊のような塊を大事そうに抱えています。このことはもうシンプルにそっくりさんが綾波の中に統合された上で、願いを保持しており母となりたいという願いを持っていたことの現れとみて良いだろうと思います。
3の、他の誰でも無い(特に綾波レイでは無い)”私”になりたいという願いはそっくりさんが名前を求めたことで分かります。この”名付けの重要性”というモチーフは漫画版風の谷のナウシカへのオマージュだろうと思います。(以下ナウシカのネタバレ有り)
漫画版風の谷のナウシカで、ナウシカが一体の巨神兵と行動を共にしている時、ナウシカが巨神兵に名前を与える印象的なシーンがあります。するとそれまで精神年齢が4、5歳児くらいだった巨神兵が急激に精神的な成長を遂げて口調も変わり、精神年齢十代後半くらいの明確な人格と個性を獲得する描写があります。おそらくシンエヴァでの名前を求めるそっくりさんとシンジによる名付けのモチーフはこの反復だろうと思います。
ですが今作の演出が粋だなと思うのは、シンエヴァでは名付けの重要性のモチーフを真逆の、”シンジがそっくりさんを名付けない”という形で反復しているところです。そっくりさんは名前を求めることで、明確な”個”となり他の誰でも無い”私”となることを望みました。しかしシンジはそんなそっくりさんに対して”アヤナミは綾波だよ。”と言って他の名前を与えることを断ります。(これは名前を与えなかったと同時に、”綾波レイ”として承認しその名を与えたとも言えます。)
そっくりさんはそれを受け入れ、LCLへの還元の直前に白色に変化して”綾波レイ”として消失(仮)しました。この時点でそっくりさんの三つの願いの一つである”名前を得て私になりたい”というのは、そっくりさんが望んだ形では無いですが、成就されたと見做していいのだと思います。そしてこのシンジが新しい名前を与えなかったことが重要な意味を持つのですが、それは後ほど触れます。
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このように見ると、長い髪、そして赤ん坊のような塊はそれぞれそっくりさんの願いの象徴であり、”願い”というのは無機的な情報でしか無い”記憶”とは異なり、その引き継ぎによって能動的な意思と感情と心も保持されていることの証だろうと思います。そしてマイナス宇宙での綾波が1.と2.の願いの象徴は持っていたにもかかわらず、そっくりさんがあれほど欲しがっていた”名前”に関してはその象徴を何も持っていないことを見ると、やはりそれはLCL還元への直前にシンジから”綾波レイ”として承認され、その名を与えられて成就したと解釈して良いのだろうと思います。
“犠牲と反復”
では次に、なぜそっくりさんはLCLに還元された後もその”願い”(人格、感情、心)を保持できたのかという問いが生まれます。実はこれに関しては自分が観た限りでは反復的演出で暗示はされていますが、明確に説明されてはいません。
ただ想像してみるに、第3村という有限の世界で有限の生を選択したそっくりさんは、その結果として自らの死を選択して受け入れたことになります。
シンエヴァでは同様に自らの死を選択したキャラクターは複数います(ミサト、カジ、ゲンドウ、そして恐らくユイも)。しかし彼らはネガティブな自殺では無く、何の為に生きるかを選択した結果としての自己犠牲としての死であり、それはすなわち生の選択だろうと思います。
この映画には反復演出が幾度も出てきますので、そっくりさんの有限な生の選択としての結果的な死の選択は、そっくりさん以外の死を選択したキャラクター達の運命にも当てはまるだろうと思います。それだけにそっくりさんの運命は重要です。
自ら有限の生を選択してLCLへ還元したそっくりさんは、その犠牲によって本来ならば越えられない壁である、LCL還元後も自らの”願い、人格、心、個”を保つことができたのでは無いかと思います。これはエヴァ世界においても奇跡です。それはつまり誰かや何かの為に自己を犠牲にして生きる選択をし、その結果としての死を受け入れた者だけが、その犠牲の対価として奇跡を起こせると言う設定だと思います。
前世の形状を失いその物質的生成はリセットされた後でも、全てが浄化されるわけでは無く残るものがあるというモチーフは、ストーリーの別の箇所で反復的に言及されています。
それはオペレーターの北上ミドリが、ミネラルウォーターを握りしめながら、”誰かのおしっこだった水を浄化したからって飲めるわけない”というセリフです。
これはそっくりさんがLCLに還元された後でも、物質的生成のリセットを越えて引き継がれるものがあるというモチーフへの反復関係にある様に思います。
この映画は長いですが、それでも足りないくらいに語らなければならないことが多い映画です。そんな映画でなんの意味もない愚痴にこれほどの時間とカットを割いて描くとは到底思えません。特にミドリはこの映画で直接メインストーリーに沿わないがメタ的で重要なセリフが多いキャラでもあります。
例えば物語終盤にエヴァに乗ろうとするシンジを鈴原サクラと共に阻止しようとした際、最終的にはそれを認めて、思いきれないでいるサクラに対して”もういいよ明日生きることだけを考えよう”と言っています。このメッセージは重要で、劇中でかなり意識されている3.11を経験した人々へのメッセージと取ることができます。
また、エヴァンゲリオンイマジナリーのそこまでの作画のリアリティラインを超えた3Dグラフィックが登場した際には、”変よこれ!絶対変!”と言ったように観客視点のメタ的なセリフを割り当てられています。
おそらくこれはミドリがTVシリーズなどから登場している主要キャラクターでなく、物語の中心にいない存在である為に、製作者がメタ的に伝えたいセリフを言う役割が与えられていたのだろうと思います。
“名付けと救済”
では次に、なぜシンジがそっくりさんに名前を与えなかったことが重要なのかと言う話になります。ナウシカの名付けのオマージュにより、名付けると言う行為がとても重要なものであると言うことは先に述べました。それはもしそっくりさんの最後にシンジが何かしらの名前を与えていたとしたら、そっくりさんはその瞬間に明確な人格と個を獲得し、”綾波レイ”ではない”別の誰か”としてLCLに還元され、プラグスーツは白に変化しなかったのだろうと思います。
そしてその誰かは1と2の願いを持ったままその個を保ってLCLの海に還ることが出来たとしても、もう”綾波レイ”ではないので、それまでのあらゆる”綾波レイ”達と共に、マイナス宇宙でシンジが出会った綾波に収束して統合されることはできなかったろうと思います。
それは綾波レイとは違う誰かであると言うことは、綾波レイとの間にATフィールドが発生することを意味するためです。エヴァ世界のATフィールドは精神的あるいは心理的な免疫機能と解釈することができる為、綾波レイではないその誰かは異物として排除されたはずです。そして自らの個を保ったまま誰にも知られず永久にLCLの海を彷徨うことになったのかもしれません。
つまり結果的にシンジは自分も知らないうちにそっくりさんを”名付けないこと”によって救済したことになります。
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シンジに関して言えば、マイナス宇宙で出会った綾波レイが長い髪だったことと、ツバメと言う名札をつけた赤ん坊のような塊を抱いていたことを、シンジが望む綾波の姿の投影と見る解釈もありえます。
しかしその解釈には少し無理があるように感じます。まずシンジはアスカとマリの散髪シーンに居合わせていない為、髪の毛の象徴の意味を知りません。(もともと知っていたと言う可能性はあります。)
そしてもしかすると、シンジはトウジと委員長の子供の名前がツバメであることも知らないのではないかと思います。第三村でのシンジは精神的などん底におり外界との交流も拒絶していました。そんなシンジが同じ食卓にいたとは言え、トウジと委員長とそっくりさんの会話にききみみをたて、それを記憶しているとは思えません。
さらに言えば、多分シンジはそっくりさんがあれほどの心と人格と願いを村人達との交流から獲得していたことさえ知らないのではないかと思います。
それは観客が見たそっくりさんが徐々に心を獲得する過程をシンジは全く見ていないからです。その時シンジは自分の回復と再生に精一杯で、そっくりさんの変化に気づく余裕はなかったのではないでしょうか。
シンジは第3村で立ち直った後、精神的に成長を遂げ大人になります。ですが、それと同時に思春期の感受性を失いつつあるので鈍感にもなっています。シンジはそっくりさんの変化にもその名前を欲しがる意味にも気づきません。また、後ほど触れますが終盤にマイナス宇宙の海辺でアスカと再会した時も、シンジはそれが式波なのか惣流なのか気にかけていないようです。 過剰に自分や他人の心を感じてしまう思春期の精神状態を経てある程度鈍感になり、他人の心は分からないことを認めてそれに伴う隔たりを受け入れることも含めて、大人になるということなのかもしれません。
もしそれが正しければ、シンジはそっくりさんの名前が欲しいと言う願いの切実さを、正確には理解していなかったことになります。おそらくシンジは誠実にそっくりさんの名前を考えはしたと思いますが、それがそっくりさんにとってどれほどの価値があることかは理解してなかったと思います。その結果として、結局シンジは新しい名付けを断りました。しかしそのことによってシンジは意図せず知らぬ間にそっくりさんを救済しました。
このモチーフは、自らが望まなかったこととは言えニアサーによって知らぬ間に多くの人々を犠牲にしたことに苦しむシンジが、実はそれと同じように自分が知らぬ間に自分にとって非常に大事な人を救っていたと言う形で反復関係になっているように思います。ただしシンジはそれを知りようがないので、観客だけが分かる製作者からシンジへの救いみたいなものかもしれません。
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ちなみにシンジは最後のカヲルとの対話で、子供の姿になって手を差し出して仲良くなるためのおまじないと言います。これはシンジがそっくりさんから同じことをされて自分が救われたというモチーフが、今度はシンジがカヲルにやってカヲルが救われるという反復になっていると思います。
シンジが子供の姿をしているのは、あれはカヲルからみたシンジの姿(マイナス宇宙における記憶と願いの具象化)だからだろうと思います。多くの考察動画やブログでも言われていますが、ゲンドウとシンジがエヴァに乗って戦うシーンで、ゲンドウのエヴァがカヲルのポーズでシンジを迎えたことからも、ゲンドウ≒カヲルなのだろうと思います。
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アスカのことにも少し触れると、物語終盤破れたプラグスーツ姿で海辺で寝ていたアスカが目覚めシンジと最後の対話をするシーンがあります。あのアスカが惣流なのか、式波なのか、あるいはその両方が統合されたものなのかに関してです。自分はあれは惣流だと思います。
理由は二つあり、まず一つは作劇的な理由です。TVシリーズから続いてきた惣流アスカとシンジの因縁と関係性を考えると、エヴァシリーズの最後であるシンエヴァではどうしても惣流アスカとシンジ二人だけの対話が必要だと思うからです。そうでなければ両者の関係も観客の思いも成仏しようがありません。
二つ目は物語上の演出です。海辺で目覚めたアスカに対しシンジは”また会えてよかった。”的なことを言い、そして”好きと言ってくれてありがとう、僕もアスカが好きだよ。”と作戦前に式波に言われた言葉に返事をします。
しかしそれを聞いたアスカは異様に恥ずかしがって背を向けてしまいます。もし自分が作戦前にシンジに好意を伝えていたことを自覚していたなら、この恥ずかしがり方は大袈裟です。アスカなら、”あっそ”とか、”うん”とか、頷くだけとか、わずかに唇を曲げて目線を斜めに落とすとかで十分です。
あの驚きと恥ずかしがり方は、まず自分がシンジに対して好意を伝えていたことへ驚き、そして続け様にシンジから好意を伝えられたことへの驚き、この二つの突然のサプライズだろうと思います。惣流が式波の存在を知っていたかはわかりませんが、自分が無意識のうちに、あるいは自分の記憶を引き継いだクローンが行なったことだろうと言う察しはつくはずです。あの時に初めてアスカはこれまで自分でも認めて来なかったシンジへの好意を、シンジの言葉で自覚させられたことになります。それは照れます。
ですが、その次にマリが現れてアスカに別れの挨拶をし、その次の瞬間エントリープラグ内で目覚めたアスカは惣流と式波が統合されたアスカだろうと思います。それは衣装が変わっていたことと、あとアスカの作画自体も違うように思います。海辺の惣流アスカはどことなく艶っぽくちょっとアメコミチックな作画ですが、エントリープラグで男性もののジャケットと下着だけの姿で目覚めアスカはシンエヴァ全体を通した作画に戻っているように見えました。今回の映画は救済と感謝が通底したテーマに思えますので、式波だけ蚊帳の外という風にはしないように思います。
”誰が為”
最後に、そっくりさんは誰のために自らを犠牲にしたのかです。この映画では自己犠牲によってその死を選んだキャラクターは皆誰かの為に死を選びました。ミサト→息子。カジ→ミサト&息子(+地球生命の多様性?)。ゲンドウ→ユイ。ユイ→シンジ。といった感じです。ではそっくりさんは誰のために有限の生を選び、その結果として消滅したのでしょうか。
そっくりさんのつたない言動だけを見ると自分が人として生きることを選んだのだから、自分のためだと見ることもできます。ですがそれはちょっとしっくりきません。他のキャラクター達は全て自分ではない誰かの為に死を選び、故に奇跡を起こすことができました。そっくりさんが自らの願いとそれが象徴する心、個、人格を、LCL還元後も保持できたとすればそれは奇跡だろうと思います。であればそっくりさんも自分ではない誰かの為に自らの有限の生を選んだのだと見るべきだろうと思います。
おそらくそれはそっくりさんの起こした奇跡によって誰が救われたのかを考えると見えてきます。
そっくりさんはマイナス宇宙において、他の全ての綾波レイ達と共に統合されて一つの綾波レイとなっています。
そして彼女だけはその奇跡によって自らが第三村で獲得した心、感情、人格、そして願いを保持したまま統合されています。そっくりさんはその統合された”全ての綾波”に強く影響を与えており、その心、人格、個、そしてその願いは、総体としての綾波の髪の毛を伸ばすと言った容姿変容だけでは無く、その心の基盤ともなっていると見ることができます。
もしもそっくりさんがその心を持ち込まなかったとしたら、統合された綾波達はおそらく心も、感情も個も願いも持つことはなかったように思えます。あれほど明確に、私になりたい、母になりたい、人になりたいと願った綾波はそっくりさんだけだったからです。
しかし彼女はシンジから名付けられなかったことを受け入れ、”私”ではなく”綾波レイ”となって消失(仮)しました。その結果として統合された総体としての綾波レイは心、人格、感情、そして願いを獲得し、それが長髪と抱えた人形に現れていました。
その最後の瞬間にそっくりさんは”私として生きて死ぬ”と言う願いを諦め、綾波として死ぬことを受け入れ、その犠牲によってそっくりさんは奇跡を起こすことができたのだと思います。そしてその奇跡によってそっくりさんが救済したのは、自分以外の全ての綾波レイ達なのだろうと思います。いえ、自分も綾波レイになっているので、ちゃんと自分も救済できているように思います。あの第3村で名前を願ったそっくりさんは、その願いを贄としたのだろうと思います。
’21/04/24th
’21/04/25th *追記
”追記とメタネタ”
今回でその終わりが描かれたエヴァシリーズ。間違いなくシリーズ物アニメ歴代トップの一つとなったろうと思います。
ですが自分はまだこの物語を未完に感じています。と言いますのは、多くの優れた物語はその始まりと終わりが対になるからです。
物語は始まりの場所に還り、しかし物語を経たことで何かしらの決定的な変化が起きている。そうやって物語の円環は螺旋を一周登るように閉じるものだと思います。
例えば未来少年コナンだと、コナンは最後始まりの島に帰ってきます。その時コナンは物語の始まりのように孤独ではありません。他にも落語の”芝浜”、映画”アメリカン・ビューティー”、ドストエフスキーの小説”白痴”、ヘミングウェイの短編”老人と海”など、古今東西名作とされる物語は大体この型を踏襲しています。
ではエヴァがどうかというと、その始まりをTVシリーズ第1話とし、終わりを今回のシンエヴァとするとこの二つは対になっているとは思えません。シンエヴァの終わりは平和で全てのキャラが救われそれぞれの世界に向かいます。一方TVシリーズ第1話はカオスと葛藤、衝突の中に始まっています。これでは対にはなりません。シンエヴァがエヴァシリーズの終劇であることは間違いなさそうなので、であれば平和の状態から始まりTVシリーズ第1話に繋がる前日談が描かれる必要があるように思います。
現状のままでは、エヴァシリーズは始まりの無い物語であり、徘徊するエヴァのように頭の無い巨人です。もしかすると頭部の無い像がシンエヴァで幾度も描かれているのは製作側もその事に自覚的だからかもしれません。
だとすればエヴァシリーズの前日談、”EVA -1.0”的なものが描かれる可能性ですが、すぐではありませんが無くはないように思えます。
というのはシンエヴァの一番最後のプラットフォームのシーンで大人になったシンジとマリのやり取りがあります。
多くの考察の方が、これはシンジが庵野監督で、マリがその奥様を表していると言っているのがあっていれば、マリがシンジから外した”DSSチョーカー/エヴァの呪縛”は、エヴァシリーズから逃れられない庵野監督のメタファーです。
ですがマリはそのチョーカーを捨てたり破棄したりしません。弄ぶように指で回してから自分のポケットに閉まってしまいます。もしかすると、奥様の許可が下りれば作る可能性もまだあるということかもしれません。
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”Eva -1.0(妄想)”
この前日談はエヴァシリーズというジグソーパズルのラストピースです。そのため描かれなければならないことがかなり決まっているので、ちょっと妄想してみようと思います。
まず、Eva-1.0は作劇的にシンエヴァと対構造になっている必要があります。そのために平和な状態から始まり、TVシリーズ第一話の葛藤、衝突、戦いに繋がる物語になるはずです。
1. その始まりはおそらくシンエヴァラストシーンのあのプラットフォーム。
2. ベンチに座っているのは若いゲンドウ。
3. 後ろから誰かかが目隠しをし、誰だ?と言う。
4. ゲンドウが振り返るとユイがいる。
5. そこで初めてマリがずっとシンジにやっていた目隠し遊びが、もとはユイがよくやっていた遊びをマリが真似していたことがわかる。
6. するとこれまでマリがシンジに対してやっていた目隠し遊びの意味が変わる。
7. マリはシンジに対し、もしユイがいたらシンジにやっていたであろうことをやっていた。
そのためにマリはユイのメガネをかけて、胸の大きい(母性の象徴?)いい女と言ってい た。
8. それはマリがユイの消失に責任を感じていることを表している。おそらくその原因がマリ。
9. 人類補完計画がシンジの犠牲によって未遂に終わった未来から来たマリは、何回も世界線をやり直したが、補完計画を阻止し、なおかつシンジが救われる世界線は見つけられなかった。そしてついにユイにそのことを伝え、その唯一の可能性はユイが初号機と一体となり、最後の瞬間にシンジの身代わりになるしかないと伝える。
10. ユイはそれを理解して、初号機に取り込まれる。その際にマリはユイと約束する。何回失敗したとしても私がシンジを迎えに行って助けると。
それ故にシンエヴァの終盤、マリがシンジへヴィレの槍を届ける時、マリはユイに向かって独り言を言った。”ユイさん、人類はついに神の力を使わずともここまで来ましたよ。” もしかするとマリはその時までに何万回もトライしていた可能性あり。ちなみにこの筋が正しいとするとマリがアスカに向かって”世界中の全ての本を読み尽くすのが私の叶わぬ願い。”と言っていたがそう無理な話でもなさそう。案外楽しんでいるのかもしれない。と言うことはマリは全ての繰り返しのループを記憶していることになる。
11. ではなぜマリはそれほどシンジに執着するのか。おそらくマリの出発地点は未来で人類補完計画は阻止できたがその代わりにシンジが失われた世界。そこでマリはシンジと何かしらの因縁がある。人類補完計画未遂時に子供だったマリがシンジに命を救われたなど。
12. その未来のユイとマリ(&おそらく冬月も)が中心となって、タイムリープあるいは世界線を超える量子テレポートのような技術を開発してマリを過去に送り、補完計画を阻止してシンジも助かる世界線を探していたことがわかる。となると全てのプランを作ったのはユイとマリと冬月。しかしシンエヴァ終盤で冬月とマリが旧知の中だが対立的な会話をしているので途中でそれぞれの目的が変わり仲違いしたのかもしれない。
ゲンドウとシンジの葛藤は折込済み。ユイの居ないその世界線でなければ世界とシンジが救われることはあり得ないため、ユイはそれを選択した。
13. 描かれる時間軸はシンエヴァでのゲンドウとシンジの対話で、ゲンドウが語りラフ画でアニメ化されていた時間軸。だが今度はユイ目線で語られ、おそらくかなりの幸せポジティブスタートで、シンエヴァのラストと対をなすように平和な始まり。
以上、勝手な妄想失礼致しました。
’21/04/26th
’21/04/28th
'21/06/16th