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Dopeなニホン語



...共犯的洗練


 ゲーテはその昔”最近の詩人はインクに水を混ぜすぎる”と言って、その内容の薄さを揶揄したといいます。

 おそらく”最近の若者の言葉は。”というのは常に言われていることなんだろうと思います。若者に限らず様々な規模のグループが自分たちの仲間意識や結束感を確認する手段として、固有のスラングや言い回し、造語などを用いることは珍しいことではありません。
 それは合言葉のような役割もあり、また標準的な言葉を歪めて用いることそのものが、ささやかな反権威的な、故に共犯的な意味合いを持つためなのかもしれません。

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 ですがここ最近面白いなと思うのは、’21年現在で10代〜20代の一部の人たちの言葉使いです。もちろんその世代も従来の意味での若者言葉や言い回しを持つのですが、その事ではなく一部の若いラッパーや歌手、アイドル、詩人、歌人などが使う日本語が妙に(この言い方が正確かは分かりませんが)洗練されているように感じます。

 それは気を衒ったような言い回しや、特殊な語彙の使いかたというのではなく、日常的な言葉を日常的な事柄の描写に用い、文法的にも特殊な逸脱をするわけでもないのにハッとするように新鮮な印象を与える言葉たちです。
 それは平凡な言葉による、日常への新しい視座の持ち方やその切り取り方とも言えるので、言葉使いのことだけではないのかもしれません。

 ですが、”言語”を世界の了解の仕方だと考えるならば、世界の捉え方や見方を、その言葉の扱い方と重ねて考えても良いように思います。

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 それらには人称、句読点、てにをは、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベット、空白、長音符、スタンプ、絵文字などの有無や選択の繊細な使い分けがあり、そうかと思うと時に大胆な語彙の使い方もあります。
 そして文字通り前後の文脈を細やかに用いたハイコンテクストな言葉使いもあり、略せるものは略し、削れるものは削り、本当にその語彙が必要なのかを問う厳しさがあります。
 ですがそれでもその多くは文法的にも意味的にも成立し、あるいは文法的には微妙でも意味的には成立し、確かに共感ができてイメージの湧く新鮮な言葉たちです。

 そのためそれらを読んだあとは、なぜ自分はこれまでその言い方や物や事の捉え方を見たことも、聞いたことも、考えたこともなかったんだろうと思わされます。そしていかに自分がコピー&ペイストな言葉使いとモノの捉え方をしているかを教えられます。

 はじめはそれが特殊な事例で、その人がただ特別に言葉使いのセンスに優れた人なんだろうと思っていました。ですがそのような例を一つまた一つと見るうちに、これはちょっと面白いと思って意識するようになりました。


...短文型S.N.S.


 そのような思いで改めて考えてみると、日本語版のツイッターがリリースされたのが2008年、LINEがリリースされたのが2011年とのことなので、それ以降の日本のSNS環境で育った世代がそのような言葉使いをしているのではないかと思えてきました。

 ツイッターやLINE、インスタなどの短文型のSNS環境とそれ以前では、テキストベースのコミュニケーションに大きな違いがあるように思えます。

 ツイッターは140字の字数制限があり、LINEには使っていて不都合を感じるような字数制限はありませんが(調べたら上限1万字だそうです)、基本的にLINEでも長文を書くことはほとんどありません。
 他にもネット掲示板やyoutubeに代表される動画コンテンツへのコメントやそのリプライなど、現在のネット環境には短文型のテキストコミュニケーションが多くあります。

 それ以前に主流だったEメールやもっと遡ればFAXや手紙でのテキストコミュニケーションは比較的に長文で、その文面も複雑で形式的な手数が多かったように思います。
 その差がよくわかるのは、文頭の宛名や”お世話になっております。”のような定形の挨拶文の有無かも知れません。

 短文型のSNSで行われるコミュニケーションはEメールなどでは扱わないような、感情的で状況的な、軽い内容の字数の少ないやりとりが中心です。基本的には140文字を使い切ることはほとんどなく、字数制限に達するようなテキストは重く圧を感じさせ、もっと砕けて言えばウザく、キモく感じられて敬遠される為、それを承知で”あえて”その意図を持って使うのではない限り長文は避けられることがほとんどです。
 そのような短文型SNSの環境では、自分の伝えたい内容をいかに軽く、字数を少なく伝えるかというインセンティブが働くのだろうと思います。

 短文型SNSが普及する以前の世代では、そのような感情的で、軽く、たわい無い話や、内容よりも話すことそのものに意味のある挨拶的なコミュニケーションは、基本的に直接の会話か電話で行われていたように思います。

 短文型SNSの普及以後、そのような軽く短いコミュニケーションは会話ベースだけではなく、テキストベースでも活発に行われるようになりました。
 ただしそのテキストとしての軽さと短さは、必ずしもその内容の軽さを意味はせず、時に重く大事な内容を軽く短いテキストで表すこともあります。

 遡ってみれば、この流れは90年代のポケベル文化から始まり、そしてインターネット黎明期の掲示板やブログ、Eメールなどを経て、徐々に現代的なコミュニケーションの中での”テキスト”の割合が増していっていたのかもしれません。
 ですがこのようなテキストの”軽さ”と”字数”の少なさが求められるテキストベースのコミュニケーションが、若年層のコミュニケーションで現在ほどの割合を占めるようになったのは、スマホの普及とツイッターやLINE、インスタなどのSNS誕生以後だろうと思います。
 もしかすると日常におけるテキストベースのコミュニーションがこれほど多い時代は、歴史的にも珍しいのかもしれません。

 そう考えて見ると、現在10代〜20代の若者、特にSNS等で一対多のコミュニケーションを取る人たちが、それ以前の世代と比較して文字に対する感受性が高く、その扱い方が洗練されていたとしても不思議なことではありません。

 彼らが日常的に行なっている短文型SNSのやりとりは、内容をいかに短く、軽く表し、しかもその言葉使いによっては批判や炎上に晒されるリスクを考えると、それは厳しい言葉の千本ノックを毎日しているようなものなのかもしれません。
 もちろん彼らの日本語がいわゆる伝統的な日本語の言葉遣いに忠実というのではありませんが、それは確かに血の通った、細やかな、そして洗練された日本語だろうと思います。


...制限とカルチャー


 ラップやポエトリーリーディング、現代短歌、そしてSNSでの活動が重要な歌手、アイドルやアーティストも含め、テキストベースの現代文化はこの数年徐々に活発になってきているように思えます。
 このように文化が盛り上がる際には表現者側の方に注目が行きがちですが、それが起こるにはその高度化する文化を楽しむことができる一般の人々の文化レベルの底上げも同時に起きていることも重要な条件だろうと思います。
 現在の短文型SNSの普及、そしてそのテキストへのインセンティブは、一部の表現者だけではなく一般の人々の文字への感受性も高め、その結果としてより洗練された文字文化が発達する条件をいつの間にか整えていたのかもしれません。

 短文型SNS環境以前では字数制限を与えられることはほとんどなく、思い浮かぶのは学校の作文くらいです。
 ですがそれらは”400字以上”などのように下限の制限がほとんどです。それらはむしろゲーテが批判したような、言葉を水増し、いかにもっともらしく膨らませて饒舌な文を書くかの訓練にはなっても、言葉の洗練に向かうようには思えません。

 本来ツイッターの字数制限は、ツイッターがアメリカで生まれた当初にそのシステムにSMS(ショートメッセージサービス)を利用しており、そのSMSの字数制限が160文字だったことに由来するそうです。その元を辿ればおそらく通信負荷やサーバー負荷などの技術的な理由がその背景にはあったのだろうと思います。
 もしそれが巡り巡って日本の現代文字文化に寄与しているのだとしたら、とても面白いことだと思います。


21.08.24.


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