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インフォ・デミック : 'XX年代。 心と身体と、それ以外のなにか。
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インフォデミック ;
語源:英語。infodemicからの借用語。 informationとepidemicのかばん語。意味: 不正確な情報の拡散による混乱。ウェブ(ソーシャルメディア)上で真偽不明の情報 や虚偽の情報が流布され、その情報を受け取った人々がパニックとな り、社会の動揺が引き起こされること。
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1_COVID-19
'19年末中華人民共和国湖北省武漢市付近で初めて確認されたSARSコロナウイルス2は、その後'20年8月27日現在までに複数の型に分かれながら世界中に広がり、世界全体で約2367万人の感染者と約81万人の新型コロナウイルス感染症/COVID-19による死者を出していると伝えられています。
この感染症の被害は地域によって異なりますが、感染確認者数と感染が原因とされる死亡者数の規模を問わず、日常の生活や経済活動がコストと痛みを伴う程度の対応と変化を余儀なくされたという意味では、グローバル化の進んでいた先進各国を中心に世界のほとんどの社会が既にその被害を受けたと言えるだろうと思います。
地震や気象などの突発的な災害とは異なり、ウイルス感染症の拡大はケースバイケースではありますが、世界的な規模で見れば数週間〜数ヶ月前から予測できる種類の危機である為、社会はその被害規模が確定する前に事前策としてその対応を決めることになります。
ですが今回のようにそれが新しいウイルスである場合には特に被害の予測は難しく、人々の移動や物流など経済活動の制限は感染拡大の抑制に一定の効果を期待できるとはいえ、社会と経済の痛みを伴う対応策であるためにその予測される被害規模との兼ね合いで調整されますが、そのバランスの見定めは非常に困難です。
今回COVID-19が私たちの生活へ及ぼした影響は、これまで人類が経験したどのウイルス感染症の流行と比較しても異質なものだろうと思いますが、現状ではCOVID-19自体はこれまでに人間社会が経験した様々なウイルス感染症と比較して飛び抜けて危険性が強いというわけでは無いだろうと思います。1918年に流行したスペイン風では当時の世界人口約18億人の内の4000万人が亡くなったと言われますし、人類は他にも天然痘やペストなど地域の全人口の三〜四分の一が死亡するような規模の流行を経験したとされています。
それにもかかわらず今回人間社会はこれまでとは大きく異なる対応をとり、現時点において言えば私たちの生活や社会が受けた影響の大部分はCOVID-19そのものではなく、むしろそれへの対応策の結果と言えるように思います。(私自身は’20年8月下旬になってようやく、ごく稀に会う程度の遠い知り合いが一人感染したという話を聞きました。)
しかしこのことを単純に過剰反応と片付けることは難しく、各国、各社会、各政府は与えられた情報と取り得る選択肢の中でその地域の特性を考慮しながら概ね理に適った対応をしたと言えるように思います。
そしてそのような対応を取らなかった場合の被害を知ることは困難であり、その対策によって回避されたかもしれない被害では無く、その対策によって生じた目に見えるマイナスの影響に人々の注目が集まるということもあり、それに加えてそれら対応策に由来するストレスも相まって人々は批判的な意見を持ちやすい傾向にあると言えるかもしれません。
今回のコロナウイルスの流行は人間社会にとって確かにエポックメイキングな事象と言えると思いますが、しかしその本質はCOVID-19が直接的に与える被害そのものでは無く、この流行への人間社会の反応にこそあるように思います。
あえて強調して言えば、”なぜこの規模のウイルス感染症の流行にこれほどの反応を人間社会は取らざるを得なかったのか”、ということです。
2_インフォ・デミック
もしかすると、今回コロナ禍が示したことの本質は私達は”インターネットが人間社会を変える”、ということの意味を大幅に過小評価していたかもしれないということかもしれません。 これまで何十年間にも渡り1960年代の開発当初から、やがてインターネットは私たちの社会と生活を変えるだろうということは、多くの人たちが幾度も様々な形で言ってきました。そして私たちもそれを知っているつもりでした。 ”インターネットによる社会の変革”などの言説にはもう誰も驚かないし何の新鮮な印象も無いだろうと思います。 確かに私たちの生活の多くの部分、買い物、調べ物、コミュニケーション、仕事、エンターテイメントなどは既に目に見える形でネット以前と比べて大きく変わりました。そのことを持って私達はインターネットが社会を変えるということのイメージを何となく理解していたのかもしれません。
ですが今回のコロナ禍に対する社会の反応は、私達が理解していた”インターネットによる社会の変革”はごく表面的で部分的なものだったことを示唆しているように感じます。
インターネットとそれに付随する様々なIT(情報技術)の普及は、私達がいまだ想像も出来ていないような規模と質で既に人間社会を変え、そしてそれはさらに進みつつあるのかもしれません。
今回のインフォデミックではその関連情報の伝播の規模と速度、そしてその玉石混合な質は、ネット普及以前と比較して劇的に変化しました。それによって多くの社会はこれまでには持ち得なかった意思と行動の選択肢を獲得しましたが、そのことが単純に良い結果につながったと考えるのは楽観的に過ぎるのだろうと思います。
3_技術と人
新しい技術はその誕生の瞬間から社会がその本質を理解して扱えるようになるまでは、それの産む利益以上の問題を起こすものだろうと思います。それまで持ちえなかった選択肢や力を得ることは、それに伴った良心、道徳、倫理や能力を獲得しなければその技術を有意義に扱うことはできず、結果それは人間性への脅威にさえなるのだろうと思います。技術の発展は、常にそれに伴う人間自身の発展を要求するのだろうと思います。
簡単な例をあげれば、生命維持装置が生まれる以前はそれを使うか使わないか、停止するか使い続けるかと言った選択も問題もありえませんでした。避けられない運命の前に人は無力ですが善良な存在でいることができました。
ネットワーク革命を起こし社会をそれ以前と大きく変えた点で、インターネットと比較に取りやすい技術に自動車の発明があります。
自動車の発明は結果的にはモータリゼーションという形で人間社会を根本から変えました。それはそれまで灯油としての価値しかなかった原油資源に動力源としての価値を与え、それによって国際的な国力のバランスを変え、戦争の形を変え、社会の規模と形式を変え、物流と情報の交通を変え、それまで交わることのなかった人々や価値観を接触させることで人間社会の価値観を変えました。
それは衣食住のような見えるものから、宗教、政治、法律などのシステム、思想哲学や文化などの目に見えない価値観など社会のあらゆる部分に影響を与え、社会や国家をそれ以前とは全く異なる形と性質に変化させました。
しかし自動車が発明された1769年当初、その時速10kmにも満たない鈍重な乗り物が人間社会をこれほどの規模で根本から変えてしまうということを想像できた人はいたのでしょうか?
それが発明された当初は当然ですが、運転技術を持つものは誰もおらず、道や都市も自動車を想定しておらず、交通法もありません。自動車の技術と能力が発展するのに並行して、人間社会もその技術を扱えるようになるために様々な能力的、意識的、システム的な発展を経て、徐々に自動車技術のポテンシャルが見えていったのだろうと思います。
そうして数十年あるいは100年以上かかってようやく、自動車技術から受ける恩恵がそれの産む問題を超え、そしてモータリゼーションの全貌が見えていったのだろうと思います。
インターネット技術による社会の変革も、それが影響を与えうる範囲と規模を考えれば、かつて自動車技術がそうであったようにその変化の表層でさえ私達はまだその全貌を知らない可能性は十分にあるのだろうと思います。
4_'XX年代、転移点のあと。
ゼロ年代からテン年代を、ネット技術がスマートフォンや高速回線などITのハード面、そしてyoutube、google、facebook、twitter、instagramなどのソフト面で目に見える形で爆発的に一般に普及し、社会に与える作用の転移点に達した時代だとすれば、コロナ・インフォデミックと共にはじまった’XX年代はネット技術が社会に与える変化の本質を人々が徐々に知っていく時代のはじまりなのかもしれません。
それは今回のように、インターネット普及における転移点以後に社会が初めて経験する、50年や100年に一度の頻度で起こるような、中長期の周期で起きる事件や災害の度に、どれほど人間社会がネット普及以前と変わったのかを、自らの振る舞いを見て自覚するという形で起こるのかもしれません。
5_選択肢としての身体。 心と身体、それ以外のなにか。
ネットとITの一般社会への普及が起こす変化の一つに”身体性”があるように思います。
これは広範囲で多岐に関わるテーマのため安易に概括することはできませんが、ネット普及以前を知る世代と、ゼロ年代以降のネットの無い世界を知らない世代の間で強くその差があるように感じます。
(ちなみに”世代”の意味ですが、人々の身体的な関わりに依拠した情報の精査と選択が弱まる現代的な社会環境では”世代”はもはや年齢差ではなく、どのデバイス&テクノロジーを選び、どのメディアに触れ、どのような偏性を持ったメディア環境に視座を持ち、それによってどのような社会的地平を共有するかが定義すると考えられるため、”世代”の意味もネットとITの普及が再定義する多くのモノの一つだろうと思います。ですがここではネットへの親和性と身体性の関係に注目するためにあえて旧来通りの年代による分類で用います。)
インターネットとITはその技術の性質の一つとして意識と身体を切り離す作用を持つと言えます。SNS上のコミュニケーションでは自身を識別するのは選択可能なアイコンであり、様々なアプリは写真を加工し声を変えます。 また、コミュニケーションの主体として、物理的に特定の空間にいる必要はなく、コメントや動画と音声でのコミュニケーションは時間的制約も少なく、意識は物理的な身体から、空間的にも時間的にも開放される傾向にあり、その結果として身体的な意味においては他者との関係性からも開放される傾向にあると言えます。
物理空間とネット空間を同時多層に生きる現代人にとり、物理的な身体は物理空間のみに生きていた時代とその意味合いが変わることは当然だろうと思います。
人により物理とネット空間のどちらでより多くの社会的関係と存在を持ち、仕事や生活の比重を置くかは異なりますが、人によって程度の差はあれ、物理空間と身体はそれを生きざるを得なかった必然から、選択肢の一つとなったと言えるのかもしれません。
選択肢という関係性を自らの身体に持つことは、それは逃れられない必然だったものとは全く次元の異なる関係性になるのだろうと思います。
しかしそれは、人間にとって”身体性”の価値が失われるということではなく、その新しい距離感によってこれまで認識されていなかった身体の役割や価値を知ることから見出されていく新たな関係性なのだろうと思います。
自らの身体との関係の変化は、人間の価値観全体に影響を与える可能性があります。
”身体性”が関わる現代的テーマは数多く、”主体と客体や人称の選択と有無”、”身体、精神、意識、心の性”、”整形やルッキズム”、”タトゥー、ピアスやスカリフィケーションなど文化的な身体痕”、”リストカット等の自傷行為”、”身体的特徴と精神的傾向をカテゴライズして結びつける人種&性別観として差別”、”ロボットや身体補完と拡張としての義手義足義体”、”ボーカロイドやオートチューン”、”遺伝子組み替えやクローン技術”、それら新旧の社会的問いが、ネットの無い世界を知らない世代によって全く新しい理解と解釈をされる可能性があるだろうと思います。
私たちが”心と身体”という対構造から解放されるということは、主体と客体、男と女、善と悪、のような対立構造で捕らえられてきた概念が形を変え、主体でも客体でもない何か、心でも身体でも無い何か、男でも女でも無い何か、善でも悪でも無い何か、賛成でも反対でも無い何か、という三番目の体を獲得し認識の構造そのものが三体構造にシフトしていく可能性さえあるだろうと思います。
上記に挙げたような現象は、これまで二元論的な世界の認識によって取りこぼされてきたものが、インターネットが促す社会の変化によってその存在を現し始める予兆、あるいは切っ掛けなのかもしれません。
6_国家の身体
身体性が変わるということの意味は、広義でいえば”情報とそれに紐付いた物理的存在の関係性の変化”です。そのためその影響はおそらく個人の身体の問題だけには留まりません。
国家と領土の関係性もそれに当てはまる一つだろうと思います。本来”戦争行為とその戦利品の分配”という目的のために生まれた集団組織である国家と政治は、核拡散以後の大規模の直接的な戦争行為が難しくなった現代ではその意義を失いつつあります。
Post war / “国家間の物理的な意味での戦争”以後、そしてインターネット以後の世界において身体を持たない国家を想像することは容易です。
現在SNSと言われるサービスが将来的に領土を持たない国家(的なもの)となる可能性は十分にあるだろうと思います。
グローバルな大規模SNSのアクティブユーザーはすでに既存の国家の人口規模を遥かに超え、2019年6月18日に2020年に発行予定であると発表されたFacebookの仮想通貨リブラを見ても、大規模なSNSの運営主体は国家は既に旬をすぎた時代遅れの枠組みであり、自分たちにはその次を担う可能性があるということに自覚的だろうと思います。
人類の物理兵器の進化と地球の環境資源の限界の兼ね合いで、人類史の中で物理戦争の役割が弱まりつつあるのであれば、これまでの意味での国家という枠組みはやがてその役目を終えざるを得ません。
物理的な暴力装置を行使する主体としての役割を国家から取り除き、それによって流動性を増し曖昧になる領土と国境線を想定した時、そこに残る”国家”に残された役割は、人々に”社会的なシステムや関係性を提供”することであり、それはそのままソーシャル・ネットワーキング・サービスです。
いずれ物理的な領土と国境の概念が失われて国家は実質的にSNSとなり、人々はそれぞれのSNSに国籍を持って働いて税金を払い、物理的に接して会話を交わし近所に住む人々が皆異なる国家/SNSに属し、人々の情報環境はSNSに依存することで物理的に隣り合う人々が全く異なる情報世界に生活することがありうるかもしれません。
しかしこのような想像に抜け落ちている決定的な要素は、物理的な意味での時間的、空間的、差異的規定としての風土です。風土とは国家の身体です。
SNSが国家となるような世界で人々がどのような関係性を風土に持つかはわかりません。現在国家が担っている役割の内、行政的な社会のシステム的部分をSNSが引き継ぎ、一方民族性やアイデンティティなどの風土(物理的な意味での空間的、時間的、差異的規定)に由来するフィジカルな”価値”に関してはまた別の枠組みが生まれ、それがかつて国家が担っていた役割の別の部分を引き継ぐのかもしれません。
心と身体の関係性が変化することは、心と身体が失われるという意味ではなく、その対構造の関係性を壊し、新しい関係性を構築する第3の要素がその関係に加わるということだろうと思います。その3番目の要素は人間の心と身体の関係性において何なのか、国家と風土の関係において何なのか。
インターネット以後の世界を妄想する時、その射程にはそのような規模の問題も含まれるのだろうと思います。
7_三体構造
現代では当たり前に行われることですが世界を陰と陽、善と悪、0と1、男と女などの対構造で捉えることは決して必然ではありません。
古代インド哲学では世界は三つの要素から成り立つとしていました。ヒンドゥー教の聖典バガヴァット・ギーターでは世界を暗質(darkness)、激質(passion)、純質(pureness)の3要素で捉え、その関係は”暗質は激質と純質の中間の反対”、”純質は激質と暗質の中間の反対”、”激質は暗質と純質の中間の反対”、というように3体の対抗関係で世界を捉えました。
3つの要素の関係において反対という関係性が重要なのは、反対(anti)とは依存を意味するためだろうと思います。暗質が激質と純質の中間の反対であるということは、暗質は自らの定義と存在を激質と純質に依存することを意味します。
antiという”何かでは無い、何かを否定する”存在は自らが否定する対象によってその存在を定義されるため、それを否定すると同時にそれに依存することになります。そのためこれら三つの要素は互いが互いに依存し定義し合う関係で組み合わさっており、それは非常に美しい世界の認識のしかたと言えます。
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これまでの歴史を見ても、文字、印刷、車輪、鉄道、自動車、電話、ラジオ、テレビなど、社会の情報や物の関係性(ネットワーク)を変える技術は、やがてその社会を根本から変えると言って良いだろうと思います。
それはその技術が直接的に実現し、想像することを可能にすること以上に、それによってこれまで社会の中に存在はしていても交わらなかったモノやコトを関係、反応させることで、ドミノ倒しのように連鎖的に物事が変わるためだろうと思います。
それは一見その因果関係がわからず関係なく見えることもその大きく多様な変化の流れに巻き込みながら、気づけば見渡す景色が全て変わっているということになるのかもしれません。
今回のコロナ・インフォデミックを機に改めてインターネット技術のポテンシャルについて想像してみましたが、これまで何となく知ったつもりでいた”インターネットによる社会変革のイメージ”とその潜在的な変化の規模には非常には大きな開きがあるように思え、自分はインターネット技術の可能性の前触れ程度しか知らないのかもしれないという気がしました。
2020/08/29th
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