御殿場の大沼、どこ?どんだけでっかいの?(想像です)

むかしむかし、大沼があったとさ

大沼があった。御殿場の歴史を紐解くと必ず出てくるこの話。
でも大沼ってどこよ?っていうのは、わかっていません。
わたしもわかりません。
南小の方まで広がっていた、とか何とか言われますが、実際じゃあ何を根拠に。と思いますね。

船で渡る二岡神社伝承(時代不明)

むかしむかし、二岡神社には船で渡らなければならなかった。という言い伝えがあります。
この船の渡し場が現在御殿場インター周辺の地名に残っていると言われています。
そう、「便船塚」です。
今はUNIQLOさんなどがあるあたりの地名です。
これよりももう少し富士山側、虎屋さんのあたりには、昔、神社があったそうです。
この神社は、伝承によると、雨の日になると渡れなくなる大沼の縁辺から二岡神社を拝するためのものだった、と言われています。
…直線距離2キロくらい?大きい!
この神社は明治の初めまでは少なくともあったようです。
また、近いところの地名で「弁天島」というような名前の地名もあったように思いますが、うろ覚えで土地宝典を図書館でひかないと…またわかったらお伝えしましょう。

ズルッ田(昭和の頃のお話)

その沼、本当にあったの?という話ですが、私が聞いた話ですと、インターができる頃、その周辺にあった田んぼは胸まで入るようなズルッ田だったようです。
とてもそんなズルッ田で、田んぼなんかできないから、くれるって言われたけど貰わなかったという話をきいて、「えー!もったいなかったね!」と言ってしまったのは、また別のお話ですが、兎に角、沼だったことを裏付けるお話の1つであると認識しています。

牢場と和田道(鎌倉時代)

別件で書きましたが、藤原宗行を祀る神社が鮎沢に。
境での処刑だとすれば、ここが大沼の縁辺?
同時代に和田義盛が鮎沢の和田館から二岡神社方面に歩いたとされる和田道が。
和田義盛が沼の縁辺を歩いたのかもしれない!とすると、鮎沢の藍沢神社から和田館まで直線距離1.5キロ以上。
さて、その反対側の距離はいかほどに。

遺跡で考える(弥生、奈良、平安)


御殿場駅周辺には奈良平安の土器出土。
南中学校はその建設時に奈良平安の土器出土。
御殿場南小は、弥生土器出土、その近辺にもあった気がします。
南小の周辺は坂が多い地形なので、あるとすると…南小よりも御殿場駅側と考えられますかね。
御殿場市内、噴火で地形がどんどん変わっているはずなので、また噴火の影響で弥生時代以前の出土は少ないので、たまたま南小の周辺が小高い位置にあっただけかもしれませんが。
遺跡から考えるのは難しそうかな。

まとめ

①ズルッ田だったってあたりから、沼はあった可能性が高い
②便船塚、遥拝所伝承から考えると、時代は不明なものの2キロくらいの距離はある大きな沼だった可能性。(南北)
③鎌倉時代くらいの状況なら、もしかすると駅周辺から東方向で1.5キロくらいは最低あった?
④南小のあたりまであった!というが、いつの時代なのか、また西方面の範囲がよくわからない。

残念ながら現在私が持っている情報ではここまでです。
伝承や遺跡などご存じの方、もしいらっしゃいましたら教えて頂ければ幸いです!

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