見出し画像

#6 始まりと終わりのない世界

人生とは、どのラインから始まりなのだろうか。
僕は時々そんなことを考える。
始まり?そんなものは生まれ落ちた瞬間だろう。
そう当然のように感じるかもしれないが、ずっと大きな疑問があったからだ。

それが確信に変わったのは、我が子の出生に立ち会った時。
僕はその素晴らしい始まりとされる光景を目の当たりにして、こう感じた。
否、これはまだ始まりの前の始まりにすぎない。と。

僕は当時、少し調子にのっていた。
このデジタル社会においてジュエリーというクラシックで大きく衰退しつつある業界で、事業を安定化させた頃だった。
今思えば、それは虚像の達成感にすぎないことを少し忘れてしまっていた。

僕個人の人生も大きな変化を達成した後だったこともある。
10年前の僕の現状といったら悲惨だった。
小学校の頃に父の会社が倒産し、極貧生活へ。
さらに夫婦関係が一気に悪化し、家庭内暴力が横行する状態に。
離婚が成立して、母子家庭へ、本格的に家族はばらばらになった。
自分の非力さに打ちのめされるような毎日だった。
それでも遠回りしながら就職し、素敵な職場と出会った。
それを誰よりも喜んでくれた母と再スタートを約束。
まずは家からと、住宅ローンの審査を通した矢先だった。
母が自宅で死亡。完全に打ちのめされた、そんな瞬間だった。

そこから人生で初めての一人暮らしが始まった。
ずっと育った東京なのに、初めての場所のように感じた。
僕の心は怒りが支配するようになり、その怒りを糧に様々な計画と実行、失敗を繰り返していった。

3年後、僕はEIKAというジュエリーブランドを立ち上げた。
自宅を拠点にスタートし、B2BとD2Cの両軸を並走させた。何も分からないから、とりあえずただ突き進む、目の前の課題をとにかく砕いていく、そんな繰り返しの日々が続いた。

何かをする時、僕はこれまでの体験から何が有用で必要なのかを知っていた。それは、「覚悟」ではない。「覚悟」を「自分の心」と結びつける「制約」である。人間の覚悟など、時と共に薄れていく。戦争のように目の前の死闘に対してであれば覚悟だけでいいかもしれないが、事業とは築くことであり、継続性のある物事であるから、覚悟だけでは足りない。と思っている。

自分をそこに縛り付ける強力な制約。自分がそれを憎むほどの。それが必要だと考えた。それは人によって大きく異なるものだから、まずそれが何かを自分に問うことが重要だった。

精査した結果、それは家族の名だった。僕は家族を重んじる。家族のためなら必要とあらば命を差し出せる人間性の持ち主である。だからこそ事業に家族の名前を紐付ければ、何があろうと僕は覚悟を継続させることができると考えた。もちろん諸刃の剣であり、失敗したら相応の反動が自分に襲いかかってくる。正直スタートしてからは、事業を失ったらきっと僕は自害するんじゃないかと思うようになってきて、なんでこんなことしたのかと過去の自分を後悔し、憎むようになった。大成功だった。

計画は非常に重要だが、全てを計画する必要性はない。より本質的に説くならば、事業とは一定のフェーズを超えると計画すら出来なくなるものだと思ってる。少なくとも僕にとって事業をするということは未知の開拓、道なき場所に道を創ることだと思っているので、こういう概念となる。だから一定のラインを超えたら大切なのは勢い。闘争でいうなら圧倒的なスピードを備えた武力だと思う。

市場を無理やりこじ開けてみれば、素晴らしい結果を得ることができた。気づけば生活はかつてないほど安定し、ある程度欲しいものを手にすることができ、好きなものを好きな時に食べることができ、趣味すら探求する余裕ができていた。

以前の状態を引き算すれば、非常に大きな変化だった。何もかもがうまく進むようになった。心には余裕がうまれ、楽しいことを吟味することができ、気づけば結婚して、子を授かり、あの悲惨な当時に心の奥から求め、恋焦がれていた家族という姿があった。

結婚式では多くの人に祝福され、あれほどまでに喜びの涙を流したのも人生で初めてだった。葬式でも泣けなかった自分が、やっと流せた涙はなんとも心地よいものだった。

僕は調子にのっていた。喜びに身を任せすぎるようになっていた。
当然の継続などこの世界には存在しないのに、またそんな虚像の中に居座りかけていた。このまま事業を少しずつでも成長させて、公私ともに安定していくことができたら。なんて考えるようになっていた。

そんなものが存在しないことも、あっても虚像でしかないことも、それ以上に自分は最もそれを忌み嫌っていたことも忘れかけていた。

僕の身の上話が目的ではない。これら背景によって、自分は既にスタートラインを超えてあるき出したと勘違いしていたのだということを伝えたかった。

幸いにも引き戻してくれたのは、冒頭の通り。
我が子の出生だった。まさに産声を上げた時、確かに始まりを感じた。
しかしそれよりも、これはまだ始まりの前の始まりでしかないことを知った。

人間の子は、母親の胎内で母が食したものを通して10ヶ月栄養をとる。
母が栄養をとらなければ、子は死ぬ。そして、出生後も自分では何一つとしてできない。放置されれば、死あるのみ。そういう存在なんだということを改めて目の当たりにした時。これは始まりではないと強く感じた。

そして僕の人生は、36年経過してもまだ始まってはいないという現実を。心から痛感した。

当たり前だ。始まりは終わりがあって存在する。終わりも始まりがなければ存在しない。つまりこの世界には終わりなど存在しない。だから始まりも存在しない。そんな世界なのだと。

100歳生きて、目を閉じる瞬間であっても、人生の始まりは起こっていない。それが事実であると。

始まりも、終わりもない世界。そんな世界に僕たちは生きている。
あんなにも心から笑った日はない。あんなにも心が楽になった日もない。
これまで僕は何かを始めることに対して躍起になっていた。それはより優れた終わりを迎えるため。

その前提が覆ってしまったのだから、これほど可笑しなことはない。
そして人は本能的にそれを知っていたのだから。だから僕は葬式に出ても悲しくなかったのだ。終わりを感じなかったからだ。愛する人の屍を見ても、終わりを感じなかった。その違和感の答え合わせだった。

人生観が180度変わってしまった。もはやそれからの人生は異世界に生きているようだった。しかし生命というのは素晴らしいもので、我が子の出生を発端として起こった革命は、我が子を育てるという行為によって安定化していった。異世界の歩き方を、何も出来ない我が子が教えてくれたのだ。正確には何も出来ないという究極のスキルがそれをもたらしてくれたのだと思う。子も子育ても素晴らしい。僕なりの理由は、これらである。

これから先、10年、20年生きていったとしても、僕の人生はいつまでも始まることはない。そして終わることもない。

きりがないのだ。どこまでいっても。だからこそ素晴らしいのだ。
ここで最も重要な人間の機能は、欲だ。純度の高い欲。
きりなく欲し続ける。求めないという選択肢をもたない生き方。
それがこれから僕の人生の歩み方になっていくと思う。

死ぬ間際まで何かを欲して死ぬ。
けれど死があるから、安心して欲に身を任せられる。生命とは本当に素晴らしい仕組みだと思う。

後悔のない人生など存在しない。後悔を残すこともまた、生命における重要な機能の一つだ。誰もが志半ばで息絶える。その姿を新しい世代が継いで行く。そして彼らも後悔して息絶えていく。それでいいじゃないか。それだから素晴らしいんじゃないか。それこそが生命という根本的な素質じゃないかと。

いつまでも始まらない。いつまでも終わらない。
ただただ思うがままに突き進める、成し続けられるこの世界。
それが僕たちの生きている本質的な世界。

ちっぽけな僕が調子にのったことと比較することはおこがましいかもしれないが、現代とは調子にのった時代だと思う。

技術が発展し、ネットで色んな場所と繋がり、ツールが素養を補填してくれるこの世界では、社会そのものが調子にのっている。

本質は何一つ変わっちゃいないのに。それが見えなくなっていて、盲目な時代。けれどそれでいい。きっと社会はこれから痛い目を見ていく、それで結局さらに強く気付き、本質と繋がることになると思う。

自由とは何なのか。生きることの責務とは、その目的とは何なのか。絶対的な複の力に対して、個との意義とは何なのか。生命とは素晴らしいから、多少の犠牲や痛みを伴ってでも必ず答えを紡いでいく。個体としての僕たちはそれにただしがみつき、その答えを謳歌するのみ。

高度経済成長にバブル経済、多いに調子づいた組織的社会は、個を小さな歯車として比喩してきた。

それは違う。この世界のどこに歯車でない生命体がいるのかというお話なのだから。偉人、天才?結局そんな個体も歯車だ。歯車であることが重要なのだ。ただひたすらに回転させていく、ただそれだけだ。それが生きることだと思う。全体がどうかなんてどうでも良い。

小さき個体だからこそ、強大なものを変化させていく。
力も知力も経験も圧倒的に上にいるはずの僕が、何もできない我が子によって、これまでの人生で最も大きな変化と影響を与えられたのだ。

自分の歯車をただひたすらに回転させていき、集まる歯車達と結束して複動力を築く。

歯車とは円である。円には始まりも終わりもない。
ただひたすらに回り続ける。この地球も、天体も、時も、命も満遍なく同じ。

ロードマップに始まりと終わりの点はいらない。
必要なのは経過だけ。
僕たちという命は、経過を築くことが目的なんだと。

感じれば感じるほど、本質に近づくほど。
この世界も人生も、旨味がましていき、ワクワクしてしょうがない。
これだから生きることはやめられない。

生きている理由はそれだけでいい。そう思う日々です。
欲望のままに、心地よい人生を。

それが歯車として円をしっかり描いているのなら、欲深いほど、社会へ未来への貢献度も影響も高まることになる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?