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(二歳児をそだてる) 日常

 わたしの家は空が近い。白い床に光が溢れ、雲が過ぎていくたびにそれが翳る。台所の隅にうずくまってこれを書いているわたしを、天高い窓から太陽がまぶしく見おろす。モロッコタイル柄のキッチンマットに、わたしの影が映る。眼鏡が滑稽におおきくて、ほつれ毛が飛び散ったみぐるしい影は、光がかすかに弱まって、いちだんと濃くなった。

 空が近いので、地上には遠い。山のうえに暮らしているので、なかなか二歳児を連れて山を下ろうというところまで持っていくことができない。わたしたちは明るい引きこもりのように暮らしている。窓の外は山と空で、雲は視線とおなじ高さにある。二歳児を連れて外に出るのは大変である。どうして大変なのかわからない、と言われたときに言葉よりまず涙がでたことで説明はつく。一歩たりとも自由に歩くことままならず、ひとりになる余裕もない日々は息が詰まる。

 これ以上ペネロペのテーマソングを聞いたらママは気が狂いますからね、びじゅチューンなら良し、あれは教養的ですもの。

 いまひとり下に逃げてきて、外のベランダに木漏れ日が揺られているのをじっと眺めている。感情が煮詰まって、耳元で泣き叫ばれているときには、これだけ近くにあっても、そういった静かな美しさに目を留める余裕はない。だけれどもこんなに近くに神さまはいる。

 昼食の焼きそばを炒めながら、わたしは自分のなかの感情と戦っていた。『いつも喜んでいなさい』なんてどうして言えるんだろう、悲しいわけではないけれど、ただわたしは疲れている。ひとりにして欲しい、自分の作品を集中してしあげる時間を与えてほしい。だけれど、疲れているなんて言っても、自分が甘えているという意識もあった。わたしなど恵まれた方だ。それについこないだ子どもをお祖母ちゃんたちに預かって貰って取材旅行をしてきたばかりだ。わたしはどこまでも甘えられるし、周りはどこまでも甘えさせてくれるわけじゃない。

 喜べと言われたからとて、自分で作り上げてそれを表面に貼っておけばいいのではないことくらい、わかっていた。だから戦った。神を賛美するべきときは二種類ある。気が向いたときと、気が向かないときである。うすい涙の込み上げるなか、わたしは主を讃えることに決めた。

 (ここまで書いたところで、二階からママァ、ママァと泣きながら降りてくる足音がきこえた。椅子の陰から顔を覗かせると、今日三度目に洋服を汚し、替えの服を着るのを拒んだのか下着姿の彼は一目散にわたしにむかってきて、抱っこをせがんだ。体重15kgの彼を抱っこしながら、わたしは10分ほど掃除機をかけた。そうしないと彼は昼寝できないのである。やっと寝付いたが、わたしは立って抱っこをした状態のままだ)

 わたしは主に目を向けます。惨めさに目を向けることだって出来る、けれどそれはどこにもたどり着かない。ひとに言われたこと、して貰えなかったこと、すべてに留まって自己憐憫に陥るのはたやすい。それだって何度もやったことはある。でもイエスさま、わたしはいまあなたに目を向けます。あなたを讃えます。

 ほんの一瞬のことだった。その一瞬でわたしの心は鎮まり、穏やかになって、魂が低い熱を出したようなじわじわとした感覚がした。神は傍にいた。焼きそばを炒めているわたしの傍に。どこに行かなくても、すぐ傍に。喜びを選ぶために、わたしはまだ戦い続けている。きっといつまでも戦い続けることだろう。けれどイエスさまがわたしの心のなかにいて、もっと高く、もっと深くへと呼び続けるから、わたしはどこまでも彼に従っていくことだろう。

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