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18で上京した私が思う故郷~佐賀県唐津市に生まれて~



『ふるさとは遠きにありて思ふもの』一度は目にしたことがある言葉だと思うけれどその続きがあるのをご存知だろうか。『ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたうもの』以下は割愛させていただくが、これは室生犀星が故郷金沢を想って詠んだものではなく、金沢から東京へ向かう際に詠まれたものである。






・物心ついた時から


東京に出るのが夢だった。正直なところ夢物語だと思っていたくらいには私の周りには東京へ行ったことがある人も大学へ行った人も少なく、自分が大学へ進学するとも思っていなかったので実感が湧いたのがいつだったかも覚えていない。あれよあれよというまに東京生活が始まった、というのが正しい表現な気がする。

私が生まれ育った佐賀県唐津市は玄界灘に面した自然豊かな街である。小中学校ともに山と海に囲まれ、実家は漁師町にあるので磯の香りを感じながら波止場の船を横目に学校へ通った日々。高校は移転する前は唐津城というお城の下にあって校舎裏手に広がる海にしばしば部活終わりに遊びに行った。文字通り大自然の田舎町だったが何不自由なく暮らしていたし、美味しい食べ物に囲まれ、『唐津くんち』で魂を燃やす地元が、嫌いだったわけではない。ただ、きっかけすらも分からない謎に生まれた東京への憧れは日に日に増していった。



強いていうならば、一歩外に出ると誰かに会う、三歩出歩くと親戚に出くわす、そのコミュニティの狭さは多少窮屈ではあった。私がどこでなにをしようと(悪いことでなければ)個人の自由なのだと思うが、そこに誰それの感想が加わったり助言という名の苦言が呈されたりするのを笑顔でスルーしながらも、私は人の噂話から遠い遠いところへ行きたかった。




・唐津生まれ魚育ち


母方の祖父は素潜りの漁師で80歳まで現役で潜っていた。ウニ、アワビ、サザエの食べ放題。祖母はよく炊き込みご飯を炊いて帰省の際は待っていてくれた。祖父が引退してからは鮑がないからと具材は鯨になりその風味がまた地元の色や匂いを私に思い出させた。実家は父方の祖父の魚釣りの趣味の影響で6人乗りの船を所有している。今では父に所有権があるがいつしか私のものになるだろうと目論んで、数年前船舶免許を取得した。私は三半規管劇弱人間なので新幹線や自分の運転でも乗り物酔いする。その私が船に乗るとどうなるかは一瞬で想像がつくと思うが強烈に効く酔い止めを飲み、黒潮丸とともにいざ玄界灘へ。風を切り走る爽快感、エンジンの音、暗いうちから出るので徐々に昇ってくる朝日の美しさ。それらが融合したあの世界は言葉にできないほどの美しさを持つ。祖父や父が釣ってくる朝どれの魚が毎日食卓に並んだ。スズキ、ヒラメ、キス、アジ、アラカブ、サワラ、タイ、カンパチ、ブリ、メバル、イカ、タコ。数えるとキリがないが私の体の半分はきっと魚でできている。贅沢な毎日を過ごしていたと今更ながら思う。






・これだよこれこれ




大学生活を謳歌する中でも実家に帰るのは大きな楽しみだった。体育会の部活に所属していたため帰省できる日程は限られていたのでお昼、夕方、夜、と時間の許す限り地元の友人に会いお腹いっぱい母の手料理を食べた。社会人になると帰省の日程はもっと減ることとなり、職業柄盆正月と言われるいわゆる帰省の鉄板である時は仕事だったので時期をずらし年に1度のペースで帰省した。



そうこうしているうちに、あの謎の東京への憧れ、もしかしたら私は幼いながらに予見していたのか?という事柄が生じてくる。「なぜそれを言われなきゃいけないのですか問題」である。これはきっと私の地元だけではないはずで、このことを理由に自分の故郷から足が遠のいているという人も多いのだろうなと想像できる。帰省した際にかけられる言葉たちによってタイムスリップしたような気持ちになったことも一度や二度ではない。その数も増え、萎え萎え状態だけども心配から出る言葉だろうしとなった私は真正面から放たれる言葉の矢をスラスラと交わしつつもう何も言わないとある時期に心に決めた。孫の顔を見せない私は親不孝なのだろうか。東京でひとり働く私は将来のことを何も考えていない自由人なのだろうか。これ以上の詳細は割愛するが私の人生は私のものなので、両親が好きなように生きなさいと背中を押してくれることに感謝してまだまだ花の都大東京で生きてゆきたい。




・一度はおいでよ佐賀県唐津市


そういえば先日知人が福岡出張の際に、せっかくだからと唐津まで足を伸ばしてくれた。本当に嬉しかった。私は持てる限りの情報を出し尽くした。LINEでリンクを送りまくった。唐津バーガーの写真が届いた。自分の地元が褒められると素直に嬉しいのだ。博多から筑肥線で唐津駅へ。その電車から見える海がとてつもなく綺麗なのだけれど、しっかりそのことにも触れてくれた。

先に述べたような事柄もあるはあるけれど、勘違いしないでいただきたいのは私は地元が嫌いなわけではない。まず大前提で食べ物が美味しい、福岡空港からの交通も便利、焼き物の歴史と文化、なんといっても唐津くんち。そして何より人の気前の良さが私は大好きだ。人によるではないかと言われるとそれまでだが私の周りには粋な人が多かった。漁師町特有の荒い気性も言葉遣いも居心地が良い。私はこの土地に深い感謝の念を抱いている。









・宵山の日に生まれた私としては


唐津くんちをご存知だろうか?

11月2日の夜にはじまり11月の4日に終わる、江戸時代から続くお祭りである。曳山をひくメンズと付き合うのは学生の頃大きなステータスとなった。盆正月は帰らない唐津っ子もおくんちには帰省する。唐津の魂である。私は11月2日にこの世に生を受けた。あいにく、曳山をひく地域に生まれたわけではないのでそこまで縁があるわけではないが、宵山生まれということでいまだに地元の友人からはお誕生日おめでとうのメッセージが届く。えんや、えんやの声、笛の音、秋の匂い。






・冒頭に戻ろう


先日、九州で仕事があった際に一瞬だけ帰省した。昨年の夏に事情があり長めの帰省をしたこともあってそこから1年ちょっと足が遠のいていたので少しだけでもと故郷の空気を吸いに行った。私が学生の時には想像もできなかった風景が広がる。スタバができるなんて。ニトリができたときもコメダ珈琲ができたときもびっくりしたのに。それでも変わらぬ良さはそのままで、決して背伸びをしない、自分たちの良さを分かっているからこその余裕ある時間の流れが地元にはある。魅力度ランキング47位でも別にきっとみんな気にしていない。だって地元の良さは自分たちがいちばん奥の奥まで理解しているから。



冒頭に戻ろう。『ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたうもの』これは「ふるさとは遠く離れてなつかしく思い出して悲しく歌うべきものでたとえ異郷で乞食に落ちぶれても帰って来るべき所ではない。ふるさとを遠く離れた都会で、夕暮れには望郷の念に涙ぐむのが常だがその思いを心に抱いてまた都会に帰って行こう」というものである。

いま私は、故郷との距離の取り方をやっと見つけることができたと思った。私自身がきっと距離の取り方を間違えていたのだ。負目?は特にないけれど、誰かに言われたことが心に引っ掛かる、ということは、自分でも何かしら気にしているということ。私は私の人生に誇りを持っている。それだけでいいのだ。福岡空港から羽田空港へ飛び、窓から見える光の多さに安堵感を覚えることを後ろめたいと思うようになったのはいつからだっただろう。でもそれでいいのだとも思う。私には私の居場所があるはずできっとそれはひとつでなくてもいい。



最後にこれを書こうと思ったきっかけを。佐賀県で国体から名を変えた国スポが行われ、バスケットボール競技が地元の唐津市でおこなわれた。東京で出逢ったバスケットボール関係者から連絡が多々ありおすすめの場所やお店を紹介しながらも、やはり18で上京しているので今の詳しい事情は分からないし、お酒が飲めるお店も行ったことがあるお店しか紹介できないことを寂しく思った。


そして先日、広島県出身の友人が佐賀に移住し家を買ったという。なんと唐津には行ったことがないそうなので、これからおすすめの場所をまとめようと思う。きっと彼は唐津にも家が欲しくなるはずである。私も彼に負けないくらい故郷の良さを学び直そう。最近の目標は地元でお仕事をすることと、エガちゃんねるに出ることである。そしていつの日か、唐津市の観光大使になるべくまだまだ東京の荒波に揉まれなければと思っている。











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船岡未沙希 MISAKI FUNAOKA 株式会社ライト代表
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