孤独でいることを許されたい
春に飛び込む
4月、新しい会社に入社した。
昨年6月に前職を辞めて約9ヶ月、満を持して。
入社のきっかけや想い、キャリアブレイクぶっちゃけどうだった?というのは必ず書きたいのだけど、自分の中でまだな感じがするので、またの機会に。
新しい会社は前と業種も職種も異なる。
完全未経験で、周りは個性的なプロフェッショナルという環境に身を投げた。
正直、めちゃくちゃ楽しい。
私は変な人が好きだ。私が「この人、変〜〜〜〜!!!」と言ったらかなりテンションが上がっている。チームはそんな、変な人だらけ。
私の中の「変」の定義にはいくつかの要素がある。超ニッチな分野にオタク的探究心があったり、難しいことをめっちゃ楽しそうに語ったり、ぶっ飛んだことをはっはっはと笑い飛ばしたり。思考や知識の密度は高いのに、アウトプットが軽やかというか、そんな感じ。
ちなみに、この話を周りの人にすると「あなたもその変な人のうちの一人なんでしょ」と今の所100%言われている。親にも言われた。そうだったら嬉しいなと思う。
泳げないから揺られてみる
今の会社に入った選択は、我ながらよかったと思う。3週間ほど経ったけど、違和感がない。息がしやすい感じ。
ただ、圧倒的な知識の乏しさに翻弄されている。学術的な知識や研究的な視点を持った人ばかりの組織で、これまで学問をおさめてこなかったツケを、ここにきて支払っている感じ。
いや、もしかしたら大学に行っていても同じかもしれない。それくらい、職場で交わされる会話は(私にとって)高度なものが多い。
ま、それを嘆いてもしかたないので、頑張って勉強するしかないし、目下の私の役目はそんな皆さんのサポート的な部分でもあるので、まずはそこをきちんとやるということで。
海を探してた
さて、タイトルに戻ります。
この会社に入ってから、自分の中の「孤独」についてよく考えるようになりました。
会社では「公共性」についてたびたび議論がなされます。公共のあり方、まちの未来、ひとの関わり。
簡単に答えを出せないからこそ、たくさん言葉が重ねられます。
私はまだまだ聞くばかりですが、感じたのが「人が主体的に関わりあうことが人生の前提にある人が多いのかもな」ということ。
そりゃそうか、って感じですが、例えば地域のなかでつながりを持つことが推奨されたり、子育てがフォーカスされやすい分野だなと。
私は人と主体的に関わることを必ずしも重要視していなかったり、子どもを産まないと決めています。死ぬときはあらゆる人に忘れ去られたいです。
もちろん、だからといって人と主体的に関わることを推進するのが悪だ!とは思わないし、むしろ絶対その方がいいと思っています。自分がしないぶん、子どもを産み育てる人たちが生きやすくあってほしい。
(人と関わりたくないというわけではないし、関わらないと生きていけないので、なんだかんだ関わるしできるだけいい関係を築きたいとも思うんだけど、自ら掴みに行っていないというニュアンス)
だから「私のような人にとっての公共とはなんだろう」と、思ったのです。
そして思い出したのが、中学生のときにやっていたアバターチャットでした。
仮初の姿と名前、話し方も変えて、ときには性別を偽って、インターネットの海を漂っていました。
でも、そのときたしかに、そこが私にとって世界で一番存在を許された場所だったんです。
家も、自分の部屋も、学校も、まちも、私のいられる場所ではなかった。
まあ結局、ネット上とはいえ人とは関わるんですけど、匿名性があったり物理的な距離があることが、むしろ私には安心できたのかもしれない。
孤独をあらわす英語には「Loneliness」と「Solitude」があって、前者は苦痛な孤独、後者はむしろ前向きで、主体的に一人でいることを指すそうです。
私は「Solitude」が許される公共性を求めているのかもしれない。あるいは、エトランゼでいられる、みたいな。
海外の旅先で、その街にとって自分は異物であり、何の関係もないことの安心感と、それゆえに同じ場所ですれ違うことの、ちいさな奇跡。
たくさんインプットしているので、頭が爆発しないように。そして大切なことを見失わないように、こうやってちまちま書いていこうと思います。
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