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(番外編)私の大学奮闘記3年次。 vol.2

番外編!! (まーくんとの恋HY366日) 隣のデザインゼミの(まーくん)くん。 ちょうどおおくりょと別れた時の話。女の子友達からやたら、(まーくんっていいよ!)と紹介されるので、別れてすぐの私は揺らいでいた。 まーくんとは、ピンホールカメラを撮影し合ったり、追いコンの、カラオケでKinKi Kidsの(愛されるより愛したい)を歌った仲でもある。ねぷた祭りに太鼓を叩くまーくんと遭遇したことも思い出していた。 (なんでみんなまーくんまーくんいうんだろう?) と思っている時

    • 私の大学奮闘記4年次。 vol.2

      編入を決めたのだ。 私は写真を選んだのに、なぜか、デザインの仲間を選んだ。 その件に関してはあとから、あーだこーだ言われる。 気にしないでほしい! デザインコースのメンバーを紹介する!! ひろの! 京都の呉服屋の子で小樽の子! まや! 福岡出身で背の高い後にお化粧品会社に就職した子! かりん! 帯広の子でやっちゃんと同じ高校のお金持ちの子! とびせ! 私立高校のお嬢様!よくお寿司を食べている裕福な子! ともちゃん! 留萌の子でイラストが上手いゆったり癒し系の子! ゆ

      • 私の大学奮闘記4年次。 vol.1

        大学3年に休学してからの話をしたい。 そう。 札幌の芸術系の大学で科目等履修生をしていた。 ピンホールカメラの新しい先生の講義を受けていた。 弘前大学でさとみつさんに教わったピンホールカメラである。 それを札幌で教えてくれる先生がいたのだ。 科目等履修生のときは、ピンホールカメラと写真実技の講義を受けていた。 年齢は、3つ歳下の子達と受けていた。 この時、 (年下との接し方がわからない) という課題に当たった。 そんな卑屈に考えずに、楽にいこう。と思ったけれど

        • 福祉×アート 2018-2024

          2018年度のこと。 漠然とアクセサリーデザイナーになりたい。 と父親に話した。 父親には、(1人で活動するよりも、会社でみんなと作業する方がいいよ。)との助言があり、B型就労支援移行所というところに配属が決まった。 B型就労移行支援所とは、 (一般企業への就職が不可能な障害を持つ方や難病を抱えている方が利用対象な作業所)のことです。 私は精神障がいを患っており、そこに配属された。いきなり、写真や美術活動を大学時にしていたのに、父親は、(アクセサリーデザイナーになりたい

          私の大学奮闘記3年次。 vol.1

          大学3年次で変わったことを述べよう。 交友関係が変わったのだ。 私は(学芸員資格)をとるために友達と科目を履修していた。その間、美術科とは全体的に離れていた。 その理由は、やはり、おおくりょと別れたからであろう。 逃げていたわけではない。 必然的に、(将来)を選ぶ中で会わなくなったのだ。 そういうものだ。 ということだとおもったのだ。 おおくりょとのたくさんの思い出のある品川町の10畳のアパートも撤去して、駅裏にある稲田で下宿が一緒だったやっさんと暮らし始めたのは、3

          私の大学奮闘記3年次。 vol.1

          私の大学奮闘記2年次。 vol.2

          私が所属している団体について述べよう。 ・アートユニットfizz これはゼミ友のかまちゃんと一緒に組んだユニットで、トイカメラの写真や視覚デザインにつながる映像表現などの展示をしていた。 ユニットの結成の動機は ”美大に入ろうと思っていたけど弘大でも頑張ろう!” というもので、2年続いて3,4回展示しました。 ありがとう! ・全学写真部 こちらは1年間いたけど、抜けることができず無念。 工藤・八重樫・福田などやり手の集まりである。 ・フリーペーパー制作団体egg こ

          私の大学奮闘記2年次。 vol.2

          私の大学奮闘記2年次。 vol.1

          学校のことを述べよう。 わたしは弘前大学だ。 そういう考えはなかった。 まず、国立大学がなんなのか、四年制大学が他とどう違うのか全くわからなかった。 母校に社会人の友達がいて、便乗して旅行してたら、大学の担当の先生から呼び出され (あなたの選んだのは学業だから、母校の友達とは違うのよ。考えなさい。) と怒られた。そこでプライドを持つようになる。 私が選んだのは弘前大学教育学部生涯教育過程芸術文化専攻美術科。 2年次では研究室(ゼミナール) にわかれる仕組みになってい

          私の大学奮闘記2年次。 vol.1

          私の大学奮闘記1年次。 vol.2

          北海道から青森県についてから、(下宿山田)という名前の建物に住むことになった。部屋は6畳間の畳の間。家具は備え付きで、ベッドや机などあり、洗濯機やトイレは共同であった。 まず、挨拶をして、仙台から来た隣の部屋のやっさんと仲良くなった。はじめの印象は怖かったけど、なんとなく夜な夜な起きて、テレビを見たり、本を共有したり、夜まで語り明かして怒られたりした。 そんな戦友もいて、下宿山田は蔓延っていた。 他には、ラジオサークルの子、吹奏楽部の子がおり、なかなか楽しかった。 しか

          私の大学奮闘記1年次。 vol.2

          私の大学奮闘記1年次。 vol.1

          私は何もわからず、弘前大学の教育学部に進学した。母校は札幌平岸高校のデザインアートコース。美術のことしかわからず、最初は困り果てた。進学理由は、(芸術文化)を学べる大学に入りたかったため。両親からは(教育の美術)じゃないと許さないから、と言われたので、適当に近い大学で教育の美術系大学を選んだ。 ”美大にいくことなど夢だ” そう思っていた。母校には、美大にスラスラ行ける奴らがたくさんいた。経済的にも実力的にも追いつかず、羨ましさはあるが、そこまで(美術)にお金はかけれない家だ

          私の大学奮闘記1年次。 vol.1