未来は決まっており、自分の意志など存在しない。
第一章 自由意志と決定論と
心理学的決定論
世界は事前にすべてが決まっている。
人間の行動は脳と環境の相互作用。
人間には自由意志はない。
意志や意識にそれを統一的に説明できる自然法則があるとすれば、それは物理世界の始まりから存在するべきであり、人間に特有のものではない。意識はグラデーションであり、万物が意識を持っている。
カール・マルクスの主張(資本主義の限界→社会主義)はある種の決定論
現在の資本主義、民主主義の限界はマルクスの「資本論」の中に記載された「予言」通りに進んでいるように見える。アマゾンやマイクロソフトのような世界企業の登場と、それに続く世界政府が登場すればいよいよ資本主義は限界を迎え、社会主義への移行である「革命」が起こるのかもしれない。繰り返す不況もマルクスが予言したものであった。
ここでの言葉の定義
意志・・・われわれの行動を制御するために、脳内に生じる自分自身の意図のようなもの
意識・・・より広範な脳内の活動を指し、皇道、認知、思考、感情、睡眠、欲求などを制御する「自分自身の脳の働き」
哲学的行動主義
心と呼ばれているのは実は行動パターンの事である
心の実態は行動、ないしは潜在的な行動である可能性がある。
リベットの実験
脳が無意識に動き出し、存後、動かそうという意志が形成され、最後に実際に手首が動く。意志が形成されるよりも先に、脳はうごいている。
(リベットは自由意志は否定したが、自由否定は否定してない)
ラプラスの悪魔
情報さえそろえば、未来は確定する。未来が自由で未確定だというのは実は誤解であり、すべての情報を手にした存在にとって未来はすべて確定済みであるという考え方。(天気予報、プレゼント、人生ゲーム)
第二次世界大戦は止められたのか
歴史とは不可逆で不可変な流れ。ある種の決定論。
だからこそ歴史は繰り返す。
第二章 暴走する脳は自分の意志では止められない
犯罪心理学と脳科学
脳に異常があれば行動の責任はとらなくていい
現時点で精神異常とみなされる犯罪も、50年後の進んだ技術では脳の異常であり、犯罪行為に責任がないとみなされる日が来る可能性がある。のは脳でありすべての犯罪は病気ゆえである。よってすべての犯罪的行為にも責任能力がない、という主張もできる。
母親に愛されたい、母親にくっつきたい、そのような欲求は「否応ない脳の欲求」であり、止められない行動、人間の本能。一方で猫を殺したい、死骸をみたい、子どもをいじめたいという「異常な愛」も「否応ない人間の本能」。
更生とは脳の変化の要求。しかし、人間は自分のDNAをかえることはできない。性犯罪は再犯率が極めて高い。脳がそれを否応なく求めるからだ。DNAが本能的に求めるものが社会に許容されるかされないかで社会の生きやすさが変わる。
同性愛は脳が否応なく求めるのもが同性であり、それはどうしようもないものであると社会が認めてきている。一方で小児性愛も脳の個性であるが、数が少なくインモラルであるため社会が認めていない。
人間の権利はどこまで認められているか
障がいは罪ではない。差別されることは許されない。であれば、脳の異常(数十年後に障害であると診断される場合もある)はなぜ罪としてつまはじきにされるのか。法律とはあくまで多数派が多数派のために作ったルールでしかない。
善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
(善人であっても極楽浄土に行けるのだから、悪人であれば極楽浄土にいけるということは言うまでもないこと)
脳に異常があっただけで、犯罪を否応なく犯してしまい、釈迦からつまはじきにされ、さらには罰として殺される。親鸞の悪人正機説の意味合い。
第三章 AI
AIについて考えることは心の本質を問うことと同意義
AIのブラックボックスと脳のブラックボックスは相似形
クオリア
自分自身にしかアクセスできない感覚の質感
私にとっての赤は他人の赤と同じか?
小説とはクオリアの言語化への挑戦
「好き」というクオリアを言葉巧みに第三者に伝える小説が売れる
知覚心理学(心理学決定論において、知覚は「入り口となるもの」)
刺激の物質的な量を増やしたり、減らしたりすることで人間の行動のパターンがどう変わるのかを明らかにする学問。
人間の五感を、観察可能な行動を指標にして明らかにする。
現実の世界(物質世界)→マスコミ→知覚→知覚世界