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北九州〜秋田〜千葉育ち。社会人になる
バブル崩壊直後。私は東海地方に本社がある会社に就職した。
東京本社採用だったけれど入社式の為に東京採用の同期達と本社へ泊まりで入社式に出席した。
入社式の記憶はただ一つ。
その時泊まった会社の研修所の朝ごはんの鮭!
この時食堂に並べられた塩鮭が衝撃だった!
どうやったらこんなに薄く切れるのか⁉️というくらいの超薄切り鮭!経費削減か?笑 しかしよくもまぁここまで薄く切れるもんだと心から感心した。5ミリ?くらいの厚さの鮭に驚いた記憶しかない入社式だった。
東京へ戻ってからは配属先が決まるまでの約1ヶ月。同期達と毎日研修。電話の受け応え、チームで課題に取り組んだり…色々やったけれど実際配属先でそれが役に立ったかどうかは??
研修期間を終え、私は何故か海外の部署に配属された。第3希望まで聞かれたけれど希望通りに配属された同期なんてほぼいない。じゃぁ何で聞くんだろうと思った。
当時私は両親とまだ千葉で暮らしていた。
ぎゅうぎゅうの総武線。毎日会社まで1時間半近くかかる通勤。今の様に携帯も無ければスマホも無い。
本も読めない混み方無いのでひたすらウォークマンで音楽を聞いていた。
当たり前だけど私、若かったな、そして時間の流れが今よりもゆっくりだったなと感じる。
時間は沢山あると無意識に感じていたのかもしれない。何の疑問も感じず毎日超満員の通勤列車で自宅と会社を往復。音楽を聴くだけの往復3時間を過ごしてました。
今はもうとてもじゃないけど満員電車は耐えられない。その時間が勿体ないなとも思う。私も歳をとったということなんでしょうね。
そして同じ総武線に時間差で揺られ通勤する父の気持ちも分かるようになった。
私が社会に出た時は既に平成の時代だったけれどまだまだ昭和の香りがプンプン残っていた。猛烈サラリーマンがまだまだ沢山いたし物凄いキャラの濃いおじさん達も沢山いた。
でも今よりこの頃の社会は寛容だったなと思う。
言いたい事があれば面と向かって言える空気感があったなと思うし、受け入れる空気も今よりあったなぁと思う。
最初の配属先で私の職場先輩になった女性がとても素敵な人だった。仕事も出来て周りにも気配りが出来て、美しくてオシャレで自分の生活も楽しんでいる人だった。
仕事は当然ながら慣れるまで大変だった。
学校の勉強とは全く違うものが求められる場面が多い事に気付いた。
そして社会には今まで以上に色んな人がいるんだなと思った。
社会って人間動物園ですよね?そう思いませんか?
うちの動物園は今思うとまぁまぁおとなしめ?の動物が多かったかなぁと思う。
きっと会社こどに違う人間模様、カラーがあったと思います。良くも悪くも人間味があって面白かったし居心地良かったなと思う。
けれど初めて経験した社会人の世界。社会を知らないから発見する事も多かったし初めて出会う価値観もあった。だから戸惑うこともあった。
数字を扱う仕事から秘書的な仕事をメインでやるものに変わってからわかった向き不向き。
私は沢山の人と接する秘書の仕事が好きだった。スケジュール管理、諸々の手配、調整するのも好きだった。でも秘書の仕事をやるまで自分にそれが向いている事も気づかなかった。
如何に上司がスムーズに動けるように気配り出来るか、先回り出来るか。やろうと思えばキリなく出来てしまう仕事。そして多忙な上司の時間を求めて部下達がスケジュールを押さえに様々な部署から担当者が来るのだけれど、部署が違えば当たり前だけれど仕事内容も違う訳で、そうすると部署毎のその時その時の仕事の状況が見えてそれはそれで興味深く、私の世界も広がった。
私がいた部署はアジア、オセアニア、中近東を統括する部署だった。当然各国に担当者がいるのだけれど女性が1人で担当している国もあった。もちろん当時はまだまだ女性は補佐的な仕事をするものという意識が強い社会だったので私と同じ一般職で入った女性達がいつも大きな責任を任されて仕事している姿に凄いなと尊敬しながら見ていた。
ちょうど私の入社した年に会社で初めて女性の専門職として入った同期がいた。4大卒男性社員と同じ括りで入社という事が当時は会社初!!という大きな出来事だった。
その女性初の専門職の同期は半年間、他の男性社員と同じ研修を受けて配属された先が私のいた部署だった。
今では考えられないでしょうがこの頃はまだ女性が男性と同じ採用枠で入ってくることはそれはそれは凄い事だった。男性と同じように…って今では当たり前だけれどあの時はまだまだとても珍しく凄い事だった。
その同期はやはりとても優秀だった。帰国子女で英語は当然出来るし仕事も出来る。とても落ち着いていて穏やかで優しく芯の強い素敵な女性だった。
でも時代が少し早かったのかなぁ。社内の男性達が時代に追いついていなかったのか。それまで男性だけで決めていた会議に女性が初めて入りそして一緒にやっていくという事は彼女にとってかなり大変だったんだろう思う。
当時はまだまだ男性中心の社会、会社だったから。
結局人柄も仕事も優秀な彼女は数年後会社を辞めて海外へ行ってしまった。会社にとってとても貴重な人材だったのに。
今彼女はどこでどうしているだろう。
今では女性の海外勤務も普通にあって、専門職も当たり前の様にある会社になっている。とても同じ会社とは思えない程変わった。社会全体が変わった。
今の様に派遣という働き方が無かったので当時会社にいるのは全員が正社員だった。
海外営業部が集約されていた東京と、国内、工場、技術含め残りの機能が全てある本社とは同じ会社とは思えない程の違いがあった。
東京⇄海外、東海地区にある本社⇄海外という一見同じような構図でも、東京と東海地区の違いが大きいのか…仕事の進め方、話の持って行き方の違いはかなりあったなぁと思う場面を多く見てきました。
本社に出張行く社員が「海外出張より文化の壁を感じる」と言っている話がちらほら。面白いなと思っていつも聞いていた。日本語が通じるけど話が通じない?ということなんでしょうか。ここでもまた出てきました。同じ日本なのに地域でこんなに違うのか、ってヤツですね。
その土地その土地にある暗黙のルールがあるんですよね。
パスポートが必要かも?海外行くより緊張する、なんてジョーク半分、本気半分。そんな事を言いたくなる程の違いがあった様です。
そう!あの入社式で私が驚いた塩鮭の超薄切りもその一つ?考え方の違いからくるもの?なんでしょうね。
入社後しばらくしてその超薄切りの訳がわかったんです!
在庫を持たない、出さない、とにかく経費削減、それが会社の社風。入社式の時の塩鮭がそれを体現していたんだ!って事に後から気づいた訳だけれど、まぁそれも大事な事なんでしょうね。
けれど…あそこまで薄くしなくても…とは今でも正直思う。笑。でもそれ程までして本社地区は徹底して経費削減してたのに、東京海外組は交際費やらなんやらとまぁ見事に浪費していた上司もいた…その塩鮭とのギャップに「何だかよくわかんないな、面白い会社だな」といつも思っていた。
鮨屋、飲み屋、バーなどの領収書を私に処理する様毎日の様に持って来る。その度に社外の方の名刺を差し出してくる上司だった。この人の名前でやっといて〜と言ってくる上司に対して最後の方には思わず「はぁ〜?」という態度になった。
まぁ、そういう時代だったし、それが出来る余裕があったんでしょうね。
けれど私は父親から「会社のものは紙切れ1枚でも一切私的に使ってはいけない」と言われてきていた。でも父だって明らかに会社のお金で飲み食いしてるじゃん?と思う事は見ていたのでそんな潔癖でいくの無理でしょ〜とそれ位はわかっていた。でもその位の気持ちで会社とプライベートは分けろと父は言いたかったんだろうと思う。
けれど私の上司になった人の中には「なかなかすんなりそうですか」と受け入れられる様な可愛いレベルでは無い人がいた。
だから「もうそろそろいい加減にしろよ」「お前一人で稼いだお金でなないぞ」と心の中でブラックに呟いていたのが最後の頃にはモロに態度に出ていたかもしれない。
でもそういう人に限って上司にごますって出世しちゃうんですよね。それがサラリーマンの世界なんでしょうが、その頃の私はまだまだ若く純粋で不誠実さを許せない時期だった。
秘書の仕事ってそういう場面も多く見える仕事でもあったかも。
最初に担当した上司はとても尊敬出来る人だった。出来る人って自分でやれることは先ず自分でやってみようとする人なのかなと思う。上手く仕事を振れる人。最初の上司がそんな人だった。そして部下のミスは自分が責任をとる、という覚悟があった。だから安心して私も一生懸命やろうと言う気持ちになれた。
2人目の上司も同じような人だった。
仕事も出来るし部活想いの上司だった。
だから余計な事を考えず仕事に専念出来た。
振り返るとその2人の上司と仕事が出来た私はラッキーだったと思う。彼らはその後会社を代表する役職となった。
でも人間が出来た2人の上司の仕事っぷりが普通だと思っていたからその後が大変だった。
何故なら真逆の人が今度私の上司となったから…
今思うとある意味チャーミング?な人だった?のかもしれないけれど、彼と仕事を一緒にするのは私にとってはなかなかしんどい事だった。
仕事絡まなければ面白いおじさん、なんだろうなと何度思ったことか…
そして今はこの方との出会いも私にとっての学びの一つだったんだなと…今はそう思う。
続く…
mai