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現在海外在住。 ここに来るまでに私が経験した家族や友人、子供の学校の事をここに記録します。

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現在海外在住。 ここに来るまでに私が経験した家族や友人、子供の学校の事をここに記録します。

最近の記事

身近な人がいなくなったあと…

義父の葬儀には多くの方がお別れに来てくれました。生前の義父がどんな人生を歩んできたかがよくわかる光景でした。 享年69歳。 夫には妹がいました。 21歳の時に他界。 娘を亡くしてから…義父は定年退職し、毎日夕方になると必ず自宅近くのお寺に行きお墓の前で手を合わせていました。毎日必ず。 強いお義父さんでした。 子供が自分より先に逝くということは想像を絶する経験です。でも正直どれ程なのか…私にはわかりません。 でも私も自分に子供が出来て…小さな命を守るプレッシャーの

    • 身近な人を亡くすということ

      11月。 ミャンマーは乾季に入り朝晩涼しく爽やかに感じられる季節です。そして一年に一度この時期の満月の日にライティングフェスティバルが行われます。 灯籠流しの空版と言ったイメージでしょうか。 炎が灯された小さな白い気球が真っ暗な夜空に放たれ空を埋め尽くします。とても幻想的なお祭りです。 タイのチェンマイでも同じように開催されます。タイではいつからか外国人観光客向けのイベントの様になってしまっていますが。 ミャンマーではヤンゴンから飛行機で約1時間離れたインレー湖で行

      • チャウンタービーチ(ミャンマー )からヤンゴンに戻ったら

        翌朝目が覚めてドアを開けると海。 昨日は日没後に到着した為全く海見えず波の音だけが聞こえていたけれど…こんなに近くに海があったとは。 でも思っていた程透明でも無いしリゾート感はゼロ。苦笑。 でもせっかく来たのだから男性陣は泳ぐそう。 するとミャンマー人ドライバーさんが"漁船借りれるみたいですよ"と耳寄りな情報が。 ならばと彼も一緒に漁船に乗船。地元の漁師さんと少し沖へ。 外国人なんて私たち以外ゼロ。快適! 波打ち際では服を着たまま水遊びをする地元の人達。 浮き

        • 3つの川を渡りチャウンタービーチ(ミャンマー西海岸)へ

          ここ数年で激変したミャンマーを見て感慨深い思いを抱く日本人、外国人はごく僅かなんだろうなぁと思いながら当時の記憶を記しています。 20年以上前になりますが… ミャンマーの西にチャウンターというところが海が綺麗で車でも行けるらしい。でも行けるのは乾季だけ。雨季は道が舗装されていないので無理だから。 ネットの無い時代。現地の写真も無い。ほぼ人伝の、現地の人からの言葉での情報しかない中、友人達と行ってみることにしました。 季節は乾季。 悪路があるらしい、という事なのでラン

        • 身近な人がいなくなったあと…

        • 身近な人を亡くすということ

        • チャウンタービーチ(ミャンマー )からヤンゴンに戻ったら

        • 3つの川を渡りチャウンタービーチ(ミャンマー西海岸)へ

          20年前のヤンゴンでの暮らし〜日本人が海外に出ると〜

          当時はほぼ鎖国状態にあったんだなぁ…と当時の自分の日常生活を振り返るとしみじみ思う。 他の日本人が当然の如くメイドさんを雇う中、私は炊事を自分でやる選択をした。何故ならハウスキーピングに入ってもらえるコンドに住めたから。 だから掃除以外も人に頼んでいたら私は退化してしまう。自分のことは自分でやりたいタイプ。しかもやる事無いと暇な駐妻の輪に入れられてしまうしね。狭い日本人社会、断るのも難しい。何せ妻であろうが夫の社名が自分の名前の前に常に常について回るのだから… 私が上手

          20年前のヤンゴンでの暮らし〜日本人が海外に出ると〜

          20年前のヤンゴンでの暮らし

          この頃のヤンゴンに滞在する外国人は本当に少なかったと思います。(登録在留邦人250人前後) ミャンマーは欧米諸国からの経済制裁中ということもあってアメリカ、ヨーロッパ人の多くが大使館、国連職員などの公的機関から… でも経済制裁しつつもしっかり?ちゃっかり?欧米の大手石油系企業なんかは進出してミャンマーの資源を押さえていたと言うから…何だかなぁと当時も思ってました。 したたかですよね。 でも日本企業も海外に出るのならばその位のしたたかさがないと駄目なんだなと、この時強く

          20年前のヤンゴンでの暮らし

          20年前のヤンゴンでの暮らし

          高い建物が殆ど無かったヤンゴン。 街の至る所から高台に立つシュエダゴンパゴダが見えていました。 夜になると荘厳に輝くシュエダゴンですが毎日の様に停電がある電力状況の悪かったヤンゴンでシュエダゴンパゴダだけは光が消えたことはありませんでした。 いつ見てもどこから見ても本当に美しいパゴダです。 日本やタイから帰って来てこのパゴダが見えると心からほっとしたのを覚えています。 日本に一時帰国した時、友人達と池袋の高層ビルの上層階のレストランへ行った時のこと。 凄い! エ

          20年前のヤンゴンでの暮らし

          1998年〜ミャンマーでの暮らし

          この頃のヤンゴンには在留届を出している日本人の数は大人、子供併せても250人前後でした。 殆どが民間企業、大使館員。飲食、現地の旅行会社などで働く日本人や現地の方と結婚されてミャンマーに暮らす日本人はそう多くはありませんでした。 250人って。。。 よく考えたら私の子供が都内の小学校にいた時の全校生徒数が360人程度だったから… それより少ないのか…苦笑 そう思うと改めて狭い狭い日本人社会でした。 知らない日本人を見かけると必然的に慰霊団の方々かバックパッカーか…

          1998年〜ミャンマーでの暮らし

          結婚〜そして日本を離れる〜

          11月末の軽井沢。 夜中に霙まじりの雪が降ったのか結婚式当日の朝、少し地面が濡れていた。 昨日までの体調不良が嘘のように回復した。 そして遥々軽井沢まで来てくれた大切な友人たちに囲まれて本当に幸せな時間を過ごす事が出来た。 お互い初対面なはずの友人達が楽しそうにお喋りしている様子を見るのが一番嬉しかった。 冬一歩手前の軽井沢での結婚式が無事終わり私は両親のいる広島から東京へ戻り都内の夫の実家へ。 夫が年明けに赴任する迄夫の実家で暮らしました。 赴任地はミャンマー

          結婚〜そして日本を離れる〜

          退職、そして海外へ〜1997年結婚〜

          1997年。夫となる人の海外駐在が決まった。 「〇〇の国に行く事になりそうなんだけど、その国はハエとかブンブン飛んでるし、何にもない不便なところだけど…」と彼。 確かに当時はまだまだ未知の国だった。 長い間軍事政権下にあって気軽に旅行に行ける様な国では決して無かった。 長い間西洋諸国から経済制裁され当時もまだ鎖国状態にあった国。日本の新聞に載るのはもっぱらネガティブな話ばかり。 危ない、怖い、衛生的ではない。そもそもどこにあるのかもよくわからない、名前は聞いたことあ

          退職、そして海外へ〜1997年結婚〜

          社会に出て出会った人たち

          秘書の仕事はやりたいけれど、好きなんだけれど、私の堪忍袋の尾が切れて以降、どうも仕事に身が入らない。 割り切ってやらねばならないと頭ではわかっていても「この人の為にこれ以上はやらない、やりたくない」という気持ちが勝ってしまう。それはそれでまたなかなか私にとってはしんどい。 やれるのに、上司が動きやすいように、先回り、先回りして、周りとの調整も…本当はもっと出来るんだけど、やりたいのに…何故か自制してしまって仕事に付加価値がつけられない。 それをしない自分に対してしんどく

          社会に出て出会った人たち

          社会に出てからの出会い

          入社して2年程経った頃。 私は総務的な仕事プラス秘書の仕事も兼務するようになった。 大きな組織だったので部長クラスにも必ず秘書がつく。海外、国内出張含め会議もびっしり埋まるおじさん達ばかりだからだった。当時はネットも無く手書きのスケジュール帳での管理する時代。今思うとのんびりした時代だったとしみじみ思う。 私にとても影響を与えた上司が3人いる。 1人目は仕事が早くそれでいて完璧で、でもおじさん世代にしては新しいものに興味を持って私達と近い感覚を持っていた人だった。今思

          社会に出てからの出会い

          北九州〜秋田〜千葉育ち。社会人になる

          バブル崩壊直後。私は東海地方に本社がある会社に就職した。 東京本社採用だったけれど入社式の為に東京採用の同期達と本社へ泊まりで入社式に出席した。 入社式の記憶はただ一つ。 その時泊まった会社の研修所の朝ごはんの鮭! この時食堂に並べられた塩鮭が衝撃だった! どうやったらこんなに薄く切れるのか⁉️というくらいの超薄切り鮭!経費削減か?笑 しかしよくもまぁここまで薄く切れるもんだと心から感心した。5ミリ?くらいの厚さの鮭に驚いた記憶しかない入社式だった。 東京へ戻って

          北九州〜秋田〜千葉育ち。社会人になる

          北九州〜秋育ち、関東へ

          中3に上がると同時に4年間を過ごした秋田を離れ千葉県へ。 この時初めて家族がバラバラに暮らすことになりました。一番上の兄は大学の寮へ。2番目の兄は秋田の高校へ残った為そこで下宿生活。そして私はいきなり一人っ子になったのです。 4年ぶりの転校生となった私でしたが今回も意外とすんなり溶け込み普通に通えた中3の1年間でした。 でもそこでもまた違いに気づいてしまう。 なる程。環境によって同じ日本で同じ年齢でもこんなに違うんだなぁと。 一番ここは違うと感じたのがこれ。 先生

          北九州〜秋育ち、関東へ

          10歳頃までの環境が今の自分のを作ったと感じる訳〜東北編

          毎朝友達の家に寄りながら数人で登校していたのだけれど、そのうちの1人の友達の家に80歳位のおばあちゃんがいて毎朝玄関でその子を待っている間おばあちゃんが私に話しかけてくれる。 絵に描いたような田舎のおばあちゃん、腰が曲がってもんぺをはいて、手にはいつもハタキと雑巾を持っていて、玄関に置いてあるインコの鳥籠の周りを雑巾で拭き拭きしながら毎朝私に一生懸命話かけてくれるんだけれど、見事に聞き取れない!泣笑 おばあちゃんの秋田弁はもう年季が入っていてもはや別の国の言葉にしか聞こえ

          10歳頃までの環境が今の自分のを作ったと感じる訳〜東北編

          10歳頃までの環境が今の自分のを作ったと感じる訳〜人との関わり編〜違いを知る

          クラスに入り黒板の前に立ち、みんなに自己紹。それなりに緊張したなぁと薄っすら記憶している。 ざわついていた教室も私が話す時にはしーんと静まり返る。するとみんなの視線が私に向く訳で、流石に緊張。 名前、何処から来たかなどなど… 挨拶が終わり席につき、しばらくすると休み時間。 すると何人かの女子が声をかけてくれた。 何人かの女の子と一緒に下校した。帰り道、途中どこかのお宅の庭に設置してある水道で水を出してみんなで遊んでいたら「ひゃっこい、ひゃっこい」と言う。 「ひゃっ

          10歳頃までの環境が今の自分のを作ったと感じる訳〜人との関わり編〜違いを知る