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結婚〜そして日本を離れる〜
11月末の軽井沢。
夜中に霙まじりの雪が降ったのか結婚式当日の朝、少し地面が濡れていた。
昨日までの体調不良が嘘のように回復した。
そして遥々軽井沢まで来てくれた大切な友人たちに囲まれて本当に幸せな時間を過ごす事が出来た。
お互い初対面なはずの友人達が楽しそうにお喋りしている様子を見るのが一番嬉しかった。
冬一歩手前の軽井沢での結婚式が無事終わり私は両親のいる広島から東京へ戻り都内の夫の実家へ。
夫が年明けに赴任する迄夫の実家で暮らしました。
赴任地はミャンマー。
1990年代後半のミャンマー。日本人で訪れた事のある人は殆どいなかった時代。
第二次世界大戦で多くの日本人が亡くなったミャンマー 。その日本兵の家族や関係者が慰霊団としてこの地を訪れる姿を空港で、地方で見かけることはありました。又ごく稀にバックパッカーはいたけれどバックパッカーですら少ない、入りづらい国でした。
日本でわざわざ高額なVISAをとってまでここを訪れようとする日本人は本当にごく僅かだった。
日本の旅行会社のツアーにミャンマーツアーなんて皆無の時代。
でも1990年代のミャンマーは第2次ミャンマーブームと言われていました。ビジネス界では。
ただ最近のミャンマーの様に完全に海外に開放され最後のフロンティアだとか、秘境だとか、日本を含め海外メディアが取材出来る様な状況ではありませんでした。
そう言えば電波少年で猿岩石がミャンマーに入国して拘束されたとかされそうになったとか、当時現地でちょっと話題になったけれど、とにかく海外のメディアが自由に撮影なんか出来るはずの無い時代でした。この時の日本のテレビ業界の無謀さ?無知さ?にはびっくりしたけれど。苦笑
逆に今のミャンマーを見ていると同じ国なのか?…と、激変に戸惑うことの方がまだまだ大きい私です。
とにかく私達がこれから暮らそうとしていた1990年後半のミャンマーとはどんなところなのかは行ってみないとわからない、という状況でした。
夫は事務所立ち上げの為かなり前から日本とミャンマーを往復し現地に入り準備をしていたので何となく現地の様子は聞いていたけれど、まだデジカメもカメラ付き携帯も殆ど出回っていなかった時代。生活するという視点での情報はほぼ皆無に近かった。
当時はまだまだ軍事政権下にあって外国人の入国、海外からの情報流入は厳しく規制されていたので入国自体が簡単では無い国だった。
でもこのミャンマーとの出会いこそがその後の私の人生にとても大きな影響を与えてくれることとなるのです。本当の豊かさに気づかせてくれた国。
物で溢れかえる日本から本当に何も無いミャンマーへ。誰も知らないミャンマーへ。
そこで見たもの、経験したことは今でも私にとってかけがえの無いものであり、生きる上での軸になっています。
当時の日本のメディアから流れてくるミャンマーの話題と言えばネガティブな情報ばかり、新聞もそう。そして私が「ミャンマーに住むことになったんです」と言うと大概の人は「ミャンマーってどこにあるんだっけ?危なくないの?大丈夫?ビルマの竪琴の国だよね?」と何故か可哀想に、大変ねという表情で労りの気持ちを寄せてくれた。
当時はそのリアクションにいつも?とはてな印が頭に浮かんだけれど私にはワクワク感しか無かったし、実際暮らしてみると毎日が新鮮で新しい発見ばかりだった。
何と言っても会社に守られある意味過保護な環境に身を置いた状況で暮らせるという幸運。
当時ミャンマーに個人で暮らしていた日本人の方々の想像を絶する程の苦労も重々理解している。だから駐在なんてもしかしたら本当に現地を知ってる、知ったなんて言えないと私は思っている。
不便、不便とは言われていたけれど所詮私達は会社に守られた駐在員。申し訳ないと思うくらい会社に守られていたのは事実。
だから楽しかったと思えるんだとも思っている。
でもこれがあの時私に与えられた環境。
それを客観的に理解した上で自分の生活を楽しむ。それでいいんだと思う。
何もないとはどれ位ないものなのか?なんて行ってみないとわからない。何度も言うけれどネットも何も無い時代。情報皆無。何が必要なのかもわからない。
そうこうしているうちにあっという間に年末になり、夫は年明け早々にミャンマーへ赴任。
世界中に駐在員がいる会社だったけれど夫は会社でミャンマーへ赴任する初めてのたった1人の駐在員でした。
お隣タイには100人以上もの駐在員がいるのに、たった飛行機で1時間しか離れていないのにこの違い。
タイからの飛行機、眼下には綺麗に整備され建設された工場やビル群。電気が煌々とつい家々。
やがて飛行機は山を越えミャンマー上空へ。
見渡す限りジャングルと蛇の様に曲がりくねった川しかみえない。ヤンゴン上空に差し掛かるとオレンジ色の電球がポツリポツリと見えて来る。
オレンジ色の電灯が灯された家らしきものが点在している。緑の中にポツリポツリと。僅かに見える車のヘッドライト。
一気に景色が変わる。
そして着陸直前、向こうに煌々とライトアップされて黄金に輝くシュエダゴンパゴダが見える。あぁ、帰ってきたなとホッとする。
静かな空港。
次に着陸する飛行機はしばらく無い。
電気の量と建物、車の量がもう全く違う。正に別世界。
20年前のバンコクは日本人の私から見ると今程都会化されていなかったけれど十分都会だった。でも緩いところも沢山あって、屋台もトゥクトゥクも街中溢れていた。日本とは全く違う景色が沢山あった。そしてバンコク市内の大通りを象が歩いていた時代でもありました。
でもたった1時間でこの違い…
何なんだろう、この差は…。
たった1時間足らずのフライトで、こんなに違うものかと。。。経済制裁を受け海外との交流に制限がある国ミャンマーと世界中から旅行者、ビジネスマンを受け入れるタイ。全く違う空間に身を置いてみて政治の影響を肌で体験し色んな感情を抱きました。
住宅環境も当時のバンコクに暮らしていた日本人駐在員とは全く違う環境でした。
当時、ミャンマーに滞在する殆どの日本人が一軒家に住んでいました。
一見聞こえはいいけれど実際暮らしてみると大変な海外の一軒家。
毎日停電、水事情、虫、などなどトラブルが多い一軒家。庭師さん、メイドさんとの相性もあります。ここでストレス溜めている方も多かったなぁという印象が私にはあります。
でもちょうど私たちがミャンマーに暮らすことになったタイミングで日本の建設会社がミャンマーに初めてのコンドミニアムを建てていました。
子供もいない夫婦2人暮らし。
メイドさんも広い一軒家も必要ないな、と思った私。
だってメイドさんがいたら私が何もすることなくなってしまう。
コンドミニアムが出来上がるのを待って夫から遅れること4ヶ月。ダンボール5個に収まる荷物を持って初めての国、未知の国ミャンマーへ向かいました。
当時、ANAがヤンゴン⇆関空の直行便を飛ばしていました。後にミャンマーの政治、経済状況の影響で日本企業が続々と撤退していきましたがANAが一度この路線を廃止するまでの数年間は本当にお世話になりました。当時ミャンマーで暮らしていた僅かな日本人にとってはありがたい心強いフライトだったのは間違いありません。
羽田空港から関空へ。そして関空でヤンゴン便に乗り換える訳ですが、ビジネスクラス利用者は数人程度。エコノミークラスもパラパラ…CAさんが至れり尽せり。申し訳ないくらい手厚いサービス。
でも到着するとここはどこ?
空港これ?
あれ?ターミナルまでの移動のバスは?
あれ?これ、日本の中古リムジンバス?日本語表示を残したまま、ドア全開で乗客を運ぶのです。
そしてイミグレーション、荷物受け取り…なんですが…もうそこからがとにかく長い。
入念に、一人一人とにかく入念にパスポート、VISAをチェックするので時間がかかるんです。
このフライトで入国する乗客なんてわずかなのに…銃を持った兵士がウロウロする中とにかく自分の順番が来るまで待つしかないのです。
そうやってやっと通過出来たと思っても今度は荷物がなかなか出てこない。
1時間以上待たされる時もザラ。他の便無いはずなのにね。苦笑。ビジネスクラス利用しても結局ここで待たされて…
そして荷物検査。ここがまたなかなか神経使うところで荷物をとにかく入念に調べられる。政府に都合悪いものが無いかどうか。当時私たち外国人もここに一番神経を使ったような気がします。
そうやってやっと出られたー!と思う時には結構ぐったり。なんて事の繰り返しの当時のヤンゴン空港。
初めてヤンゴン空港に到着した日。エアコンの効いたエリアから外に出ると一気に空気感が変わりモワァっとした湿気をたっぷり含んだ高温の空気に一瞬で囲まれたあの時の感覚は今でも忘れられません。
あぁ、ミャンマーに来たんだな。
空港に迎えに来ていた夫と久しぶりの再会。
ひとまず夫が暮らすホテルへ。
車での移動中。窓の外には今まで見た事の無い景色が次から次へと私の目に入ってくる。
本当に今まで見たことのない景色ばかり。
こうして私のミャンマー生活が始まったのです。
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