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退職、そして海外へ〜1997年結婚〜

1997年。夫となる人の海外駐在が決まった。

「〇〇の国に行く事になりそうなんだけど、その国はハエとかブンブン飛んでるし、何にもない不便なところだけど…」と彼。

確かに当時はまだまだ未知の国だった。

長い間軍事政権下にあって気軽に旅行に行ける様な国では決して無かった。

長い間西洋諸国から経済制裁され当時もまだ鎖国状態にあった国。日本の新聞に載るのはもっぱらネガティブな話ばかり。

危ない、怖い、衛生的ではない。そもそもどこにあるのかもよくわからない、名前は聞いたことあるけれど…当時日本人の多くの人がそんな感じだった。

でも私は「まだ日本人が殆ど行った事が無い国なら是非行ってみたい!自分の目で見てみたい!行く行く!ハエとか全然気にならないよ!」

即決だった。

秘書の仕事よりも断然そっちの方が面白そう!ワクワクする。そう思った。

堂々と前向きな理由で退職する事をその上司に言える事も嬉しかった。駐在員として赴任先で会社の名前を背負って生活しなければならないのはよくわかっていたから。何故なら日本人が少ない国へ駐在員としていく場合、常に〇〇会社の誰々さんが必ずついてまわるからだった。例え妻という立場でも。だから私も駐在=仕事だと思っていた。今は時代が変わってそんな事ないかもしれませんが1990年代後半はそうでした。

「〇〇国へ一緒について行く事にしました!なので退社させていただきます。」

そう伝えると上司はとても驚いた。

社内結婚だったので駐在先でも夫の関係で会社と縁が切れる訳ではなかったので秘書をしていたその上司との縁が切れる訳ではなかったけれど解放される喜びはあった。

私たちの組み合わせが意外だったのか、最初みんな私達の結婚には驚いてはいたけれど最後沢山の方に祝ってもらい私は名残惜しい気持ちを持ったまま会社を辞める事が出来た。

同期や先輩。今でも繋がっている私にとって大事な人たち。出会えて事に感謝している。

千葉で一緒に暮らしていた両親はこの少し前に広島に転勤となり私は2番目の兄と都内で暮らしていた。

夫が赴任するまで残り5ヶ月。

この間にまず結納、結婚式を挙げて駐在の準備をしなければならなかった。

もうバタバタだった。

両家に顔合わせ。結納。

そして私はひとまず都内から両親のいる広島へ。

結婚式は私の大事な友達に祝ってもらいたかった。大きな式場で会社の上司達を呼んで結婚式を挙げるのだけはどうしても嫌だった。呼ばれた方も大変だろうし、何よりも本当に祝ってくれる人にだけ囲まれて結婚式を挙げたかった。

友人達は大変だったかったかもしれないけれど敢えて平日。でも友達が休んで来やすい様に金曜日。私の結婚式を口実に式のついでに旅行が出来る様にと軽井沢にした。金曜日の軽井沢なら上司たちも仕方ないな、行かなくてもいいな、という良い理由になると思ったから。

秋田の時の親友。高校時代の部活の仲間。学生時代のバイト先の先輩達。会社の同期。そして一番近い親戚。

みんな結婚式の後も軽井沢を楽しんだと言っていたので嬉しかった。テニス部の仲間はみんなラケットを持ってきてテニスをやったらしい。

私の両親は式を挙げる場所も招待客も私が決めたことを全て尊重してくれた。

でも夫の両親はこれにはびっくりだったろうなと思う。

え?会社の人は呼ばなくていいの?軽井沢?都内の式場とかじゃないの?心配された。

私の自由さに戸惑った事でしょう。

何せ私と夫の年齢差10以上。両親の年齢も必然的に高くなる。価値観の違いにびっくりしただろうと思う。親の意見ほぼ聞かないで進めるわけだから。

引き出物も全て自分で準備した。一人一人に違うものを。メッセージを添えて。

広島に行ってから殆どの時間を式の準備に時間を費やした。

この時色んな疲れが溜まってしまったのか風邪気味になった。普段飲んだ事の無かった市販の風邪薬を余り気にせず飲んでいた。

ただこれが良くなかった。

初めて胃が荒れた。初めての経験だった。長期間、余り考えずに用法守らず気軽に飲んでいたからだ。

式が近づいてきて、でもやらねばならい事が沢山。寝不足も続きかなり体力を消耗していた。

そして式前日。広島から軽井沢へ移動する前の日の夕飯。

父が「体力つける為にもお肉を食べろ食べろ」と言ってきた。

仕方ないなぁと思いながら半ば強引にごっついステーキを口の中に入れた。

すると夜中…

猛烈に胃が痛くなり何度も吐いてしまった。

これはまずい…

明け方になっても治らない。

もう吐き出すものがないのに吐き気が治らない。初めて胃液が出る程吐いてしまった。

朝になればなんとかなるだろうと思って耐えたけれどどうにも治らない。

寝ている母に「きついかも」と伝えた。

この時、母はかなり狼狽えたらしい。

数時間後には新幹線に乗って東京経由軽井沢へ行かねばならない。この状態で果たして乗れるのか?私の状態は私が思っていた以上に悪かったのだ。

でもとりあえず何とか夫と合流予定の東京駅までは辿り着かねばと、ヘロヘロの私を新幹線に乗せた。

一向に吐き気が治らない私。

やばい、

御手洗に席を立って歩いていたら目の前が真っ暗になった。

これもまた初めての経験だった。

目の前真っ暗なので手探りで新幹線の壁をつたいながらデッキ辺りまで行きそこでうずくまった。

なかなか帰って来ない私を心配した母がデッキで蹲る私を見つけて大慌て。

車掌さんに事情を説明すると車掌室で簡易ベットの上で休んで下さいと、車掌室を使わせてくれた。有難い。

でも私はこの時の記憶が殆ど無い。とにかくしんどかった。

母はその私の側に寄り添いながら富士山に差し掛かった辺りでこう思ったらしい。

「外は快晴。綺麗な富士山。私はこれからおめでたい娘の結婚式に行くのに何故不安な気持ちで車掌室にいるんだろう」と。

東京駅に着くと夫が心配そうな顔をしてホームで待っていた。

その時母は

「あぁ、ほっとした。」夫に私を引き渡して安心してんだそう。そして急にお腹が空いたんだとか。

でも軽井沢行きの新幹線に乗っても私の体調は改善しない。

軽井沢駅に到着するとそのまま軽井沢病院へ直行した…そして点滴に繋がれた。

点滴後も直ぐに良くなる訳でもなく。

前夜、出席する家族、親戚だけでこじんまりと会食することなっていたのに私だけ部屋でひたすら寝ていた。この時も殆ど意識なくひたすら吐き気と闘っていた…後から思う。あぁ、あのメニューも私が決めた、家族と食べたかった料理だった…泣

この時自分の事で精一杯で周りの家族がどんな気持ちでいたかなんて考えられる余裕も無かったけれど後からこの時の話をする家族はみんなが興奮してこの時の話をする。

私はかなりの事をやらかしてしまったんだなと思った。苦笑。

夫の父は「今から明日来てくれるお友達に連絡すればまだ間に合う。〇〇ちゃんの体調が一番だから無理させない方がいい」ととても心配してくれていたんだそう。お義父さんらしいなと思う。

一方のお義母さん。ケローッと特に心配した感じでは無かったらしい。

あぁ、これもまたお義母さんらしい。

この翌朝。式当日。私の体調は劇的に改善!

あれは何だったのか?という位吐き気も治り普通に歩ける状態にまで回復した。

続く…

mai






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