「ものすごく嫌だけれども諸般の事情でどうしても現状から逃れられない」という状態
自己責任論というのは、「ものすごく嫌だけれども諸般の事情でどうしても現状から逃れられない」という状態を認めない、ということである。
「諸般の事情ってなんだよ?拳銃つきつけられてるわけじゃないだろ?だったら断れよ。辞めろよ。言い返せよ。立ち去って他の選択肢を選べよ」と。
世の中には、他人のこの「諸般の事情」を軽減しようとして活動する人がいる。あるいは自分でその軽減を訴える人もいる。また、「諸般の事情」は変えられないにしても、「現状」を少しでも耐えやすいものにしようと尽力する人がいる。
ところがそういった努力は、自己責任論者にとっては迷惑極まりない。純粋な自己責任の競争原理のメカニズムだけであれば必要なかった「保障」や「交渉」のコストが必要になるからである。自分の取り分が減るからだ。蜘蛛の糸を登るカンダタである。
だからそういう人間を「自己責任」という言葉で根こそぎ一掃したいのだ。
いや、そうではない。彼らはむしろ人々を叱咤激励しているのだ。人々のためを思って、「誰も助けてくれない」「自分の身は自分で守るしか無い」という真実を教えてくれようとしているのだ、という意見がある。(その意図だけでなく正当性も含めて)ありそうにもないことだが、かりにそうだとしよう。
それを信じて立派な自己責任論者に成長した彼ら彼女らは、決まった大きさのパイをひたすら取り合うだろう。脱落者は自己責任であり、脱落者のためにパイを増やす努力など全くする必要はない。そうして、勝ち残った彼らは、同じく自己責任論を唱える。ゼロサムゲームのマッチョプレーヤーが再生産される。
いや、実際には市場環境は変化するから、これはマイナスサムだ。これらのマッチョプレーヤーによって構成される労働市場は極めて多様性に乏しく、まさに「マーケットにおいて」駆逐されるにちがいない。それもまた自己責任と、彼ら彼女らは諦め、悟るのだろうか。
多くの人々は「ものすごく嫌だけれども諸般の事情でどうしても現状から逃れられない」という状態にいる。その人々を侮蔑したい人間は勝手にすればよいが、私は他ならぬ自己責任において、この問題にこだわり続けたい。