100種類の痛み
現在の社会環境において人間が感じうる、「100種類の痛み」があるとしよう。「100種類の痛みのほぼいずれをも感じない」人間が、マジョリティを形成している(ように見える)。
なぜか。
「マジョリティ」だからこそ彼ら彼女らにとって「100種類の痛みのほぼいずれをも感じない社会環境」を作ることができたのだとも考えられるし、所与の社会環境において「100種類の痛みのほぼいずれをも感じない」種類の人間だからこそ「マジョリティ」として存続できている、とも考えられる。
おそらく実態は、この両者が互いに強化しあってきたのであろう。
(もっとも「マジョリティ」という言葉に対応する実体は一体何なのか(そもそも存在するのか)、ということは問われなければならないが。)
その一方で、100種類の痛みのうち数種類、数十種類の痛みを感じる人間は確実に存在する。そういう人々が、そのような痛みを感じる社会環境を変えようとしても、それぞれの感じる痛みの種類の組み合わせが異なるので(部分的には重なることもあるにせよ)、なかなか同じ目的の下に協力することが難しい。
さらには、たとえ同じ種類の痛みであっても、その強さは人によって大きく異なる。そのこともまた、痛みを持つ者の協力を難しくする。マジョリティと言っても痛みを全く感じていないわけではなく、相対的に痛みが小さい、というのが実際のところであろう。
もっと言えば、実際には痛みの種類は100どころではなく、膨大な数にのぼるであろう。だとすると、今現在、自分が感じるているものと全く同じ痛みの組み合わせを持つ人間は、この社会で自分一人だけなのかもしれない。
異なる痛みの解消に向けての働きかけは、時に同じリソースを奪い合うことになる。強い痛みを感じている人間がリソースを獲得するために、マジョリティを支持したり、自分とは異なる痛みの解消を訴える人間を攻撃することさえある。
そういう、リソース獲得をゼロサムゲームと捉える枠組み自体がおかしい、と問題を再設定することはできよう。しかしその場合、全ての痛みを解消するために必要なリソースは膨大なものになり、問題解決のハードルは限りなく上がってしまう。問題解決以前に、果たしてこの問題再設定自体に対して広汎な合意が得られるか。
他方、痛みは耐えることができるか。ある程度はそうかもしれない。しかし限度がある。そもそも、「なぜ私がこの痛みに耐えなければならないのか」という理不尽さは拭い去れない。
もちろん我々は、痛みの解消のみを目的として生きているのではない。それとは相対的に独立した、価値の実現をも目指しているのであり、その「価値」の下に異なる痛みを持つ者が協力することは可能である。
しかし、これにもまた限度がある。あまりにも痛みが大きければ、その解消こそが最大の価値になる。
一見マジョリティのど真ん中にいるような人間が実際には「特定の強烈な痛み」を抱えていて、それを解消しようとする行為の異常な強度ゆえに、ある種の「成功」を収めているのかもしれない。
他者の痛みへの無理解は、自らの痛みの経験の少なさ、他者に対する想像力の欠如ゆえ、なのかもしれないし、自らの強烈な痛みゆえ、なのかもしれない。
わからないことばかりである。薬局に行けばとりあえずペインキラーは購入できるが。