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「部分最適化」の科学技術コミュニケーション
(2013年8月4日)
リスクコミュニケーションを例に考えてみる。
(1)「合理的な」第三者による認識軸
問題となっている対象に関して、
A.安全だと認識/B.安全ではないと認識/C.認識がそもそも欠落(安全/安全ではないという判断の対象にそもそもなっていない)
という3つの領域が存在する。
(2)当事者による認識軸
問題となっている対象に関して、
A.安全だと認識/B.安全ではないと認識/C.認識がそもそも欠落(安全/安全ではないという判断の対象にそもそもなっていない)
という3つの領域が存在する。
上記(1)(2)という2軸があって、それぞれに3つの領域があるので、当事者によるリスク認知はこれらの3×3=9の組み合わせのうちのいずれかになる、とする。
(1)がどの領域に相当するかに依らず、(2)がBのとき(あるいはCを一部含むとき)、当事者にとって、いわゆる「不安」が生じる。
一方、当事者が感じる可能性のあるネガティブな感情は「不安」だけに限らない。当該リスクを生じせしめたメカニズム、リスクをとりまく文脈によって、「リスク発生源」(と認識される主体)に対する「異議申し立ての感情」が(様々な強度で)生じる。
翻って、リスク発生源の担当者によるリスクコミュニケーション行為は、当事者に対して(1)Aの領域を理解してもらおう(=「合理的な」第三者による安全だという認識」と当事者による認識の齟齬を当事者に変容を促すことで解消しよう)とすることが当面の主目的となる。
※もちろん(1)Bも重大(場合によっては最も重大)だが、そもそもこの領域は「「合理的な」第三者」によって「安全ではない」と認識されているので、社会的な圧力が直接「リスク発生源」に向けられ、何らかの解決に向けての努力が進められる可能性が比較的高い。しかしこれさえも十分に行われないことも十分にあり得、これは狭義のリスクコミュニケーションの枠組みでは解決しがたい問題である。
このとき、「(1)C」つまり「「合理的な」第三者による認識がそもそも欠落している領域」は、コミュニケーションの対象とならないことが多い。
また、「不安」以外の「異議申し立ての感情」もまた、コミュニケーションの対象(少なくとも主題)とならないことが多い(せいぜい、(1)Aの領域を理解してもらうための、取り除くべき「障害」として位置づけられるに過ぎない)。
ここまでの議論を概観すると、リスクコミュニケーション行為は、「「「合理的な」第三者による安全だという認識」と「当事者による安全ではないという認識」の間の対立が生じている部分のみにフォーカスし、「「合理的な」第三者による認識がそもそも欠落している領域」「当事者の「リスク発生源」に対する「異議申し立ての感情」は無視もしくは軽視していることになる。
もちろん実際はこのような単純な図式では無いだろう。しかし、ここで言いたいのは、リスクコミュニケーションの領域において、社会心理学的研究等々の様々な知見が「前者の解決のみ」に資するものになりがちであり、結果として、当事者のネガティブな感情を生じせしめている様々な要因の「ごく一部」を解消することで、「全体の」解決を目指す、という極めて不自然な目的―手段構造に陥ってしまっているのではないかという懸念である。
本稿ではリスクコミュニケーションを例としたが、これはリスクコミュニケーションに限らず、あらゆる科学技術コミュニケーションに共通する問題であると言えよう。