画面の魔力に絡めとられることの幸福さについて――フランク・ボーゼージ監督『ムーンライズ』(Moonrise,1948)
何かが画面に映っているのだが、それが何かを明確に把握することができない。モノクロ、スタンダードの画面に映る輪郭の判然としない白と黒のグラデーション。やがてキャメラがそのピントを合わせると、その答えが明らかになる。それは、複数の男のスーツを纏った足の反映なのだが、キャメラはやがて右にパンし、画面手前に向かって歩いてくる3人の男の足そのものを捉えることになる。とはいえその男たちが何者であるかはわからない。あくまで男たちの足が映し出されているだけであって、彼らが何者で、いま始まったばかりの物語でどのような役割を演じることとなるのか、われわれ観客には明らかにされていない。すると、さらに複数の男たちの足が画面に現れることになるのだが、やがて3人の男が階段を上ることになる。そして中央で歩いていた男の首に輪がかけられる様子が影で映し出される。そう、いままさに絞首刑が執行されようとしているのだ。やはり影で示された男がレバーを倒すと、同じく影で示されるに留まる縛り首の男は宙づりになり、絶命することになるだろう。ここまでワン・シーン=ワン・カットで描かれたこの最初の一連のシークエンスの後、首を吊られた人形の影が赤子の身体に落ちている様子が示され、この赤子が負うことになる不幸さを予感することを避けられない。
ああ観てしまったと幸福なため息をついてしまう瞬間が存在する映画がある。そのような映画に出会ってしまったとき、われわれは、瞬く間に映画の魔力に囚われてしまう。物語やら同時代性やら、あるいは小手先の手段や意図を越えた画面にみなぎる迫力が、瞳を惹きつけてやまない。私にとってのそのような映画がひとつ増えたことになる。フランク・ボーゼージFrank Borzage監督によって撮られた『ムーンライズ』(Moonrise,1948)はその後も目を見張るショットがたくさんあるが、物語はフリッツ・ラングFritz Lang的な心理的サスペンスを語るにはやや楽観的すぎるきらいはある。だがそんなことは瑣末なことにすぎない。ファースト・ショットが瞳を刺激したその瞬間、観てしまったと悩ましくも幸福なため息をつくことを避けることができなかった私は、『ムーンライズ』の驚くべき魔力に絡めとられた幸運なひとりであったのかもしれない。
フランク・ボーゼージ監督は『ムーンライズ』を撮った時点ですでにキャリアの後期を迎えており、最盛期は、たぶん『第七天国』(7th Heaven,1927)や『街の天使』(Street Angel,1928)、『幸運の星』(Lucky Star,1929)などを撮った20年代後半だと思うが、私もボーゼージの全ての作品を視界に収めたわけではない。主だったほんのいくつかの作品を観たにすぎない(プレ=コードPre-Code時代の『戦場よさらば』(A Farewell to Arms,1932)はもっとも観ることが容易なボーゼージの作品と思うが、本当に注目すべき作品のひとつと思う)。まだ発見の機会が残されている。画面の魔力の甘美な誘惑に武装解除された私は、ボーゼージの作品を観続けるだろう。
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