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視聴覚の、視聴覚による、視聴覚のための映画ーードン・ワイズ監督『熱砂の女盗賊』(The Adventures of Hajji Baba,1954)

 かつて映画は知性的であることがその評価基準とされた。そこでは、監督と呼ばれる人物の思想や主張がこめられた映画がその評価を高め、そうではない映画が低い評価を被ることとなる。日本においてはそれに反発する姿勢で蓮實重彦氏が「表層批評」と呼ばれる地平を切り拓いたのだったが、「かつて」と書いたものの、今なお「現在」の「社会情勢」であったり「社会問題」であったりという呼ばれ方をする題材を得た映画(さしあたり「社会派映画」と呼んでおこう)が注目を集めることも少なくない。いっぽうで「作家映画」と呼ばれる映画も存在する。「映画作家」と呼ばれ、ムーヴィー・ゴアたち、あるいはシネフィルたちの支持を集めた人物による映画。これらは、題材が「現在」の「社会情勢」や「社会問題」を取り扱っていようといまいと、注目にたる作品となる。実際これらの作品は刺激的であることが多く、21世紀現在の劇場でかかる作品で多くの刺激を受け取ることができる映画は、このようなものが多いことを否定することはできない。とはいえここには「誰を作家とするか」という問題も横たわってはいる。


 では、上記に該当しない映画たちに生き残る術は残されていないだろうか。そうではない。視聴覚に刺激を与えてくれる作品は、それが作家映画であろうとなかろうと、あるいは当時の「社会情勢」や「社会問題」を取り扱ったものであろうとなかろうと、生き延びて絶えず現在のわれわれの視聴覚を刺激してやまない「現在の映画」としてその輝きを目と耳で捉えられねばならない。無論、すぐさまいい添えておくと、「社会情勢」や「社会問題」を扱っていた上で、視聴覚を刺激する優れた作品であればじゅうぶんに称賛されねばならないし、「作家映画」としても視聴覚を刺激し得ないのであれば、過大評価すべきではない。


 そして今ここに、「現在」の「社会情勢」や「社会問題」といったものを取り扱いうる資格を保ちつつ、いっぽうで「作家」たる存在になりえたひとりの人物が存在している。彼はジョン・ガーフィールドJohn Garfieldらのエンタープライズ社に所属し、ロバート・ロッセンRobert Rossen監督やエイブラハム・ポロンスキーAbraham Polonsky監督らの作品に関わり、アイダ・ルピノIda Lupino監督の作品にも携わるなど、赤狩りの嵐が吹き荒れ、女性監督の存在が今以上に希薄であった当時のハリウッドの事情を鑑みれば、じゅうぶんすぎるほどに「社会情勢」や「社会問題」を語るに足る人物であったといえよう。そしてその正当な嫡出子として「作家」を名乗ることもできたはずなのだ。しかし彼が撮った作品の表層には、あるいは深層においても、そのような「社会情勢」や「社会問題」と戦った男女の作品の痕跡などどこにも見当たらないし、その正統なる血統を誇示しようともしてはいない。いささか低予算とはいえどこまでも資本主義的な商品としてのハリウッド映画がそこには存在するだけである。だから、彼の映画を赤狩りの被害を被った人々の、あるいは数少ない女性映画作家の嫡出子として評価するのはおよそ誤った手段というべきだ。あくまで視聴覚を刺激する「現在の映画」を撮ったドン・ワイズDon Weis監督と彼による作品『熱砂の女盗賊』(The Adventures of Hajji Baba,1954)は、そのような地平に存在してはいない。


 ジョン・デレクJohn Derek演じるハジ・ババと呼ばれるひとりの男は、エレイン・スチュワートElaine Stewart演じるまだ見ぬ王女に恋焦がれている。いっぽうでエレイン・スチュワートは、ポール・ピサーニPaul Picerni演じる王子と結婚するつもりである。王子との結婚に反対されたエレイン・スチュワートは、こっそりと王宮からの脱出を試み、王子の元へ駆けつけようとする。その道中にジョン・デレクと遭遇し、道中を共にすることとなる。
 もちろん典型的なハリウッド映画の商品であるが故に、待ち受けるのはジョン・デレクとエレイン・スチュワートが結ばれるエンドマークになることは想像に難くないし、その予想が裏切られることはない。また出演している役者が一様にA級のスターなどではなく、専らB級映画への出演が主で、この前後からテレビシリーズに進出することになる人物ばかりの作品でどのように商品価値を持たせたのかといえば、出演する女性たちの艶かしい身体である。彼女たちが身にまとうことになる薄手のヴェールの衣装は、性器の露出には至らないものの、そのボディ・ラインは露わになっており、扇情的な様相を呈する。とはいえ「日活ロマンポルノ」をはじめとする「ピンク映画史」という世界映画史的には例外的といってよかろうものを持つ日本に生きるわれわれは、そのような見た目に騙されてしまうことはない。
『熱砂の女盗賊』が注目さるべきは、そのような見た目にかかわらず、あるいは低予算を予想させる美術やスターの不在にもかかわらず、きわめて軽快というべき身振りの豊かさが画面を活気づけ、視覚を刺激してやまない点にある。ジョン・デレクが馬を飛び移る動作ひとつとっても、曲芸的というか、おそらく影にトランポリンを隠しているのだが、軽快なアクションで画面をいささかも停滞させない。然るべきアクションが然るべき画面で捉えられ、運動感を持続させ、視覚を刺激し魅惑の世界に誘惑するような映画。そこには赤狩りの悲劇も女性監督の声高な叫びも影を落としてはいない。熱砂に照りつける太陽がいささかも翳りを帯びていないように、ひたすらに楽天的に撮られたこの作品は、徹底的に、視聴覚の、視聴覚による、視聴覚のための映画であり、それは「社会派映画」や「作家映画」という評価を必要としない絶対的なまでの「映画」にほかならない。


補記 今この文章を病床の上で書いている私は、視聴覚のいくらかを失いかけている。もちろん回復の見込みがないわけではない。だから今回の文章が少なからず私の映画との向き合い方について文量が膨らんでいるとしたら、その事情もある。回復し、この文章を自ら再読したとき、こんなこともあったと思えていれば嬉しい。


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