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「凡庸な悪」(2023年12月)

●12月1日/1st Dec
ラジオ関西での収録終了。もう10年ほどお会いしてなかったので、お久しぶりだったけど楽しくお話できた。

●12月2日/2nd Dec
昨日のラジオで自分の仕事についてインタビューされながら、改めて自分の目指している方向を考えていると、だんだんシュタイナーに近づいていくような気がしてきた。全くそんなことは意識もしてなかったので答えてはいなかったが、ちょっと腑に落ちる。

社会変革は個人の変革の中から生まれてくるものであり、その個人との世界との関係性を結ぶものが芸術である。そしてそれぞれの個性を伸ばす教育こそ芸術であり、一番の教師は自然である。何より自然に潜む美や形態や色彩の秘密を明らかにする行為こそ芸術である。シュタイナーはそう考えていた。

加えて、理性だけでは不十分なので、芸術があり、それは見て消費することよりも、自分で試して創造することに意味がある。そういうスタンスには大共感するし、既にシュタイナーが道を開いていたのだなと改めて思う。自分自身も色々としていてまとまらない人のように捉えられるが、現代的なカタチでこういうことをどうできるのかを考えるのが仕事か。

●12月3日/3rd Dec
神大病院に実際に来るのは初めてだが、手術室の外側はこんな感じになっているのか。このところなぜか心臓外科とのご縁が続いているが、あんな緊張の強いられる仕事を続けておられる先生方には感服しかない。かつては医者になろうかとチラリと考えていたこともあったが、あんな大変な手術は僕には到底出来ない仕事だったなと改めて思う。

●12月4日/4th Dec
明日の講義は「urbanization/都市化」の話だが、専門に近いところなのでスライドが200枚超えそうな勢い。前回省いたバウハウスも含めると 1枚30秒で話しても足りないくらいので、アスリートのように少しずつ削る。

ノーフォーク農業とロンドンの公衆衛生法あたりからクリエイティブシティ論、現代のメガリージョンと都市課題まで一気に150年を語り抜ける予定。特に19世紀後半から20世紀前半の建築から都市デザイン周りは盛り込みたいことが多すぎる。

そもそも、この講義は一つのトピックで10回分くらいの話を詰め込んで、専門外の学生になるべく分かりやすく話そうという無謀なチャレンジ。毎回100枚越えのスライドが15回なので単純計算で1500枚のスライドになる。作成していると何度も身体壊しそうになる。

●12月5日/5th Dec
本日のデザインクロニクルの講義は「URBANZiZATION」。21世紀の問題は都市に集約されるが、19世紀の人口増加から話を始める。イギリスでの農業革命と産業革命が合わさって、人が働き口を求めて都市へと流入したことで、都市の過密問題が起こった様子を絵画、写真、データなどから見る。

特にロンドンでは1800年に100万人に満たない都市人口が50年後には200万人を超え、20世紀に入る頃には650万人に達する。都市には工場が乱立し、過密居住でスラムだらけになり、コレラは流行する中で1848年の公衆衛生法を皮切りに都市計画が行われていく経緯を見ていく。

王立公園、コモンズの解放、公園というのが平等の思想を体現した場所だったことも解説する。同時期にパリではオスマンによるバロック都市計画がされていた様子も見る。広場と放射状の大通り、ボザール建築の街並みなど、今のパリの街の骨格が築かれていくプロセスを追いかける。城壁の外のブローニュの森の公園もスライドで見せる。

同時期に、マンハッタン島の中央にセントラル・パークの計画が打たれて、オルムステッドがデザインした風景式庭園が建設されていく様子も確認する。開発圧が高い都市の中心に建物が立たない場所を確保した先見の明についても触れる。その後オルムステッドのボストンのパークシステムの提案、コロンビア万博の会場デザインを機に都市美運動へと繋がる経緯も追いかける。

こうした都市美運動がハワードの田園都市につながり、今のニュータウンの原型になっていることも見る。途中で空想的社会主義のロバート・オウエン経由で、マルクスにちょっと寄り道してコミュニズムとの相性の良さを解説。そこから少しだけ脱線してフリーメーソンのスライドを一枚だけ入れた。

都市美運動はすぐに衰退して、モダニズム建築が台頭してきた経緯の中で、チャップリンのモダンタイムズをバックに機械化時代のまなざしを確認する。ルイス・サリバンの「形態は機能に従う」というフレーズ、そしてフランク・ロイド・ライトの有機的建築を経由して、バウハウスへ。

前回話したグロピウスが校長を務めたバウハウスで、ヨハネス・イッテン、カンディンスキー、モホリ=ナジのことに一通り触れて、ハンネス・マイヤーからミース・ファン・デル・ローエの一連の仕事へ。ナチスによる閉鎖後のアメリカでの仕事の紹介の中で、ユニバーサルスペースとミニマリズムなどを解説。現代のオフィスビルのスタイルがいかに構築されたのかの理由を探る。並行してコルビュジェのドミノシステムとユニテダビタシオン、輝く都市なども紹介して、現代の都市がなぜこんなデザインになっているのかの起源を考える。

その後、マンハッタンのスカイラインの変遷を追いかけながら、超高層ビルがどういう経緯で誕生したのかを確認する。オーティスのエレベーターの安全装置が果たした役割などにも触れながら、摩天楼の都市が築かれていく様子を一緒に見ていく。

ゾーニング制度の読替えによる超高層ビルのデザインが導かれていく様子も解説。ワールドトレードセンターでクライマックスを迎えた摩天楼と、同時多発テロの背後を見ながら、それが社会的な持っていた意味も少し考察する。中世の伝統文化や風土が生み出していた都市景観が建設技術、法規制によって導かれていき、それが現代ではほとんど資本の力に左右されることにも触れる。

最後に都市のこれからについてサスキア・サッセンやリチャード・フロリダなどの都市社会学を紹介しながら、メガロポリスからメガリージョンへと移る中でますます資本主義化していく都市状況での都市間の生存競争の激化について考える。

19世紀初めはわずか3%だった都市人口が2020年あたりには55%を超え、あと数十年もすれば70億人くらいが都市居住する世界が予想されている。大事なことは全て都市で決められ、田舎も都市の価値観で塗りつぶされていくなかで、都市の限界についても考えてみる。

今日は欠席者なしで全員が結構集中して聞いていたので、この手のトピックの方が関心があるのか、と想像してみたり。かなり盛りだくさんだけど、こんな世界観があることをひとまず身体に通してほしいと。

●12月7日/7th Dec
前回の講義でロンドンの都市計画が公衆衛生の枠組みから定められた話をした。この「公衆」という考え方は、人間の個別性を勘案しなくてもいい場合には有効かもしれない。だが、やはり一般化してモデル化した人間像を想定しがちなのは否めないので、議論の精度か上がらないことが多いように思える。
政策に関わって仕事する機会が多いほど、公衆衛生の兵器化について鈍感になるのかもしれない。

●12月8日/8th Dec
本日は年に一度の京都外国語大学での「スピリチュアルツーリズム」の講義。この枠組みでしか話せないことがあるので、今日はこれまでの僕のフィールドワークも交えて「聖地のデザイン」の話をする。100分あるので、思い切り話せたが、今年は1限にも関わらず受講生も多く、反応もかなり良かった。

インドでのフィールドワークの映像や、ストーンヘンジの調査なども見せながら、地球の特殊なスポットとしての聖地を解説する。お呼びくださった原一樹先生が、前の週に宗教人類学の植島啓司先生の「聖地の想像力」を学生にご紹介頂いていたので、話が入りやすかった。神聖幾何学のイロハもレクチャーして、それを以て古代の聖地や生命の形態を分析していく。

その後で、聖性を生み出すために日常の事物から距離をとる手法を紹介。サンティアゴデ・コンポステラ巡礼路のブランディングプロセスを紐解きながら、いかにして聖性が演出されていたのかを解説する。その流れで現代の聖地の演出手法との連続性をアニメツーリズムと並行して見ていく。現代の宗教はアニメやアイドルに移っている根拠を「距離」というキーワードで読み解いた。最後に僕なりの聖地のデザインの意義について語って講義を終える。質問も結構飛んできたので、それなりに関心持ってもらえたのではないかと。

2限目は「観光文化研究」も講義を頼まれていたので、そこでは革命の話を中心に話す。受講生の多くは中国人で、台湾人も一人混じっていたので、デジタル社会主義がリアルに響くのではないかと。日本の学生や研究者の政治意識に比べて、彼らはリアルに自分ごとなので、講義後も台湾の五権分立の話なども聴きながら、少し立ち話。

原先生は東大でドゥルーズ研究していたので、ちょっと聞きたいことがあったのだが、ランチしながら別の話題で盛り上がったので聞きそびれた。僕自身は同世代の研究者からあんまり相手にされないので(というよりそもそも研究者には相手にされない)、こうして年に一度のディスカッションがとても楽しい。

●12月11日/11th Dec
講義に向けて1920年代から30年代のアメリカの生活史を改めて調べ直していると色々と発見がある。20年代のマーケティングの萌芽期の広告では素朴なキャッチフレーズで商品が説明されているが、30年代に入るともう少しグラフィックも凝った感じになってくる。

時代的にはアール・デコに入ってくるので、カッサンドルのように流線形が取り入れられるものもあって楽しい。アール・デコはアール・ヌーヴォーとは違って運動というより単なるスタイルの側面が大きく、当時のデザイナー達の意識は特に統一されてもいなかったのだろう。

●12月11日/11th Dec
満を辞して社会彫刻家を名乗るタイミングが来ているような気もするが、今ひとつ勇気が持てなかった。しかしここのところ信頼おける美術の先達からエールを頂き、その気になってしまいそうだ。これまで何となくランドスケープアーティストなどという肩書きがついてしまい、流れでここまで来ていたが、本流のランドスケープの方々のされていることと離れてきているので、申し訳ないと思っていた。そろそろ潮時なので、色々と整理していかねば。

●12月11日/11th Dec
明日の講義は資本主義の本質や金とは何かを話そうと思っていたが、その前にやはり消費の本質を話さないと聞く準備が出来ないと思ったので、そのスライドセットにする。まずはマーケティングの言うままに消費させられている状態を自覚しないと、金の支配からは自由になることすら出来ない。アメリカの狂騒の20年代からファイトクラブまで繋げて話すことで、何とか意図を汲み取ってもらえたらと思うがどうなるか。

●12月12日/12th Dec
本日のデザインクロニクルの講義は「CONSUMPTION 」として「消費」について話す。主に1920年代から1940年代に消費社会に突入していくアメリカの話。最初に少し古典経済学と、それを裏返しに見た哲学者たちの話題からスタート。

古典的な経済学では、資源や生産物は有限で、無限の欲望を持つ消費者に対して常に不足していると想定する。それを市場経済で分配するか、計画経済で分配するかの違いはあれど、資源の希少性が前提になっている。

それに対して、資源は不足しておらず過剰にあるという立場から経済を見る可能性について紹介。そもそも消費とは、過剰な生産物の処理と考えたバタイユ、消費の本質を貴族が見せびらかすための衒示的消費に見たヴェブレン、ポトラッチのような贈与経済に重ねたモースなどを紹介する。資本主義経済では生産されたものは、消費か貯蓄か投資のいずれかに向かうが、最終的には全て消費へと向かうことを考察。

また人間の欲望のほとんどは過剰な精神から来ていて、我々が消費しているものはほとんど精神的なものだという考えも紹介する。マズローの欲求段階説と他者のまなざしの関係、ジンメルの欲望には距離が必要という概念などを紹介しながら、これ以降の話の補助線にする。 

その次に、現代の消費社会のフォーマットがどのように誕生したのかを追いかける。第一次世界大戦で無傷だったアメリカ。債権国でもあったので戦後に資金が流入し、狂騒の20年代と言われるバブルに突入する。その空気感を映画「華麗なるギャッツビー」のトレーラーを見ながら少し感じてもらう。

電灯の導入、自動車の普及、ラジオや映画の普及、ジャズエイジなどサッチモの歌とともに見てもらい、この時代に今の我々の基本的な生活のフォーマットが整えられたことを確認。女性の参政権が認められ、フラッパーと呼ばれる自由奔放で新しいタイプの女性像が現れたことも紹介。 

一方で30年代に入ると世界恐慌を機にファシズムの嵐が吹き荒れたことも紹介。ナチスの台頭、スターリンの粛清など社会が不安に陥っていくスターリンの秘密警察のニコライ・エジョフの写真なども見せながら、時代の空気を感じてもらう。

ドイツのバウハウス、ロシアアヴァンギャルドは両方ともファシズムで解体させられ、多くの芸術家や知識人がアメリカに亡命。モダニズムの思想が持ち込まれたが、大衆消費社会のアメリカで飼い慣らされてインダストリアルデザインとして消費のためのものになっていく様子を見ていく。 

モダニズムが飼い慣らされていく手法に、時間と空間とイコンが巧みに使われていくことを見ていく。有名な自動車会社のフォードとGMとの1930年代の戦いを紹介しながら、永久に使える車を目指したフォードに対して、毎年モデルチェンジするGMが時間という概念を使って勝利したプロセスを解説。"時代遅れ"という演出から新しさや変化、速度に重きを置くアメリカンマインドへと繋げる。 

また空間ではモダン都市とノンモダンな野生世界が対比させられ、近代生活の優位性が観光文化の中でプレゼンテーションされていった様子を紹介。主に当時の観光ポスターを見ながら、いあに近代都市が特権的な位置で描かれているかを見ていく。

三つ目のイコンでは、超高層や機関車のようや巨大で威圧的なテクノロジーを飼い慣らすために、フェティッシュな卓上のオブジェやミニチュアが巧みに使われた例を紹介。民族的な装飾にインスパイアされたアール・デコの幾何学的な装飾と後半のストリームラインのデザインを紹介しながら、いかにイコンが巧みに使われたのかを見ていく。

こうしたデザインがマーケティングの元で行われて、人々の中にある価値観を植え付けて消費へと誘導される様子を解説する。 我々の価値観や理念や正義というものが、文化という安全そうに見えるものとマーケティング技術によってある方向へ導かれていく様子を指摘する。

こうした消費社会はWASPを中心とした移民が集まったアメリカの一つのアイデンティティ共有の手段になっていたことを紹介。伝統的社会の束縛を逃れて移住し、平等、公平、自由というアメリカデモクラシーを共有する人々はモダンデザインのモノを消費するライフスタイルを共有することでアメリカ市民になった。

アイデンティティへの欲望が刺激されて消費へと導かれていく様子はモノの消費が頭打ちになった戦後から高度経済成長期も続く。今度は他者とは違う個性的な自分を演出するために、モノを身につけることへと誘導される。そこには他者のまなざしが必要で、モダン都市はマーケット化していく。そうした状況をナルシシズムの時代と指摘するラッシュの考察を紹介。

そしてボードリヤールの消費記号論と併せて、我々が消費しているのはモノでも機能でもなく、それに付随する意味やストーリーといった記号であることをブランド品の紹介とともに考える。そうした記号で自分のアイデンティティを固める記号のハンティングとナルシシズムは現在ではモノだけでなく、趣味や学歴や社会活動にまで拡がっている。

他者のまなざしの前で顕示されるソーシャルグッドが、ナルシシズムの延長になっていないかどうかを問いかける。最後にファイトクラブのタイラー・ダーデンの映像を見せながら、我々が消費社会の奴隷になっていないかどうか、自由になるとはどういうことなのかを考えてもらう投げかけをして講義を終える。

今日は少し概念的な話が多かったのでスライドを絞ったがそれでも100枚くらいになった。ただ理解を確かめながら結構ゆっくり目に話したので、何とか理解してもらえたのではないかと思う。

本当は金や経済とは一体どういうもので、それは本当のところ誰が動かしているのかという、歴史の裏レイヤーの話をしたかったのだが、まずこの話をしてからでないと聞く準備が出来ない。年内はあと一回だが、流石に2000枚近くのスライドを管理するには、脳のロジカルフォルダーをフル活用しないといけないので、毎回ヘトヘトになる。

●12月14日/14th Dec
常々思うが、自分で手を動かしてアウトプットを作る作業というのは、受動的に何かを学ぶよりも何倍も身につく。誰かに任せてそのアウトプットだけを判断するのは一見効率が良さそうだがディテールの感覚が分からないし、その整合性が腑に落ちていない。どんなにつまらない入力作業でも、小さなダイアグラムでも、自分の責任のもとで何か手を動かしながら得たものは、深く記憶に残る。

●12月16日/16th Dec
博士後期課程の公聴会とゼミ終了。缶詰めでスライド作りの数日間のラストデーなので、少々頭が鈍い感じか。この10年は経済学研究科で社会人大学院生の博士論文の指導をしてきたが、新大学になって後は順次卒業して行ってもらうだけなので、そろそろ終わりが見えてきた。

アカデミックな作法の中で規定演技が出来ることと、自由演技として論文など関係なく創造的に研究することは、少し違う。どちらも大事だが、博士号を持つというのは、自らの専門領域の問題だけでなく、様々な問題に対して論理的に思考を組み立てられる能力があるとして見られることかと。ライセンスを持つことが目的ではなく、論理性を踏まえた上で、どうクリエイティブに研究するかが大切だと個人的には思う。

●12月17日/17th Dec
博論ゼミの中でも散々議論したが、金の仕組みをちゃんと理解していると、経済波及効果というものが怪しい指標だというが見えてくる。だからそれを根拠に語ること自体がまなざしのフォーカシングポイントを操作しているに過ぎないという見方も出来ることは指摘しておいた。万博の話になりかけたので、もうちょっと突っ込んで議論してもよかったが、関係者が多いのであれくらいが限界か。

●12月18日/18th Dec
久々に保田茂先生の話を聞いて、来週以降の講義の立て付けの方向性に勝手に勇気を頂く。今日は「味噌汁の効用」の話で、血圧や免疫、腸内細菌の改善から動脈硬化糖尿病、骨粗鬆症、認知症、脳卒中、胃がんの予防まで味噌と乳酸菌が持つ効能についてのお話。

以前お会いした時と変わらない様子だったが、もう御歳が84。今でも健康に各地を飛び回っておられるのは、先生自身が毎日自分の身をもって米と味噌汁食を続けて健康を維持しておられるからと改めて感じる。 

身体という環境をいかにデザインするかは、以前より僕自身も関心を寄せていて、米食も含めて自分の身体で色んな実験をしているが、自らの生活において実践しないと何のリアリティもない。

講演後に二人で話し込んだ時に、有機農業研究の第一人者として活躍されておられていた保田先生でさえ、大学時代はかなり干されていたという話を仰られていた。だからハナムラさんも焦らずにじっくりやりなさいとエールも頂く。

自らの生活のリアリティから外れずに、日本の食糧の現状、人々の健康と農村の将来を憂いて、兵庫県下で米食と味噌汁を普及させる活動を今でも展開されておられるが、あの歳になってまだ利他的に活動される姿勢には頭を垂れるしかない。

保田先生は冗談混じりに明るく語られていたが、日本の農と食の問題は由々しき事態だ。米を食べる人が減っているのに、農業が保てるはずもない。農村が潰れたら観光で何とかなるという考えなど吹き飛ぶ。農村を守りたいなら、今すぐ誰でも出来るのが、毎日「米を食べること」だ。それをせずに棚田の景観を守りたいという主張だけ唱えるのは、外から研究するだけの理屈として虚しく響くのは仕方あるまい。

まちづくりについても同様で、そのテーマに本気で携わりたい人は我が街で実践をしている。外から専門家として関わるのは我が街で実践してこそなのだろう。僕自身が自分にとってまちづくりにいまいちリアリティが持てないのは、どこに行っても我が街という意識が欠けているからだ。

ディアスポラとして生まれた自分は血と土地の結びつきが薄い境遇のせいかもしれないが、どこにいても他所者のリアリティしかない。自らの問題ごとにならないことに手を出しても何のリアリティもないので、近しい領域にいながらこれまでもまちづくりにはあまり関わって来なかった。

自分ごとの範囲でしか行動できないのも幅が狭いが、自分ごとでもないのに携わることの方が誠実さに欠いてしまうこともある。僕の講義を受ける人の中にはまちづくりに携わろうとする学生も居るので、そのあたりを次回のメッセージに据えてスライド組み立てようかと。

●12月19日/19th Dec
12月21日と28日にラジオ関西に出演します。平田オリザさんと田名部真里さんがパーソナリティをつとめられている番組で、13:00からです。オリザさんともお久しぶりにお会いして、二週に渡って色々と楽しく話せました。是非お聴きください。

●12月19日/19th Dec
本日のデザインクロニクルは「GENERATION/生成」というタイトルで話をする。年内最後なので、ひとまずの締めにはなる。物事が生成するには、原因があって結果がある。なのに我々はとかく結果だけを欲しがる。しかし原因が整っていないのに結果は生成してこない。そういう視線で街を見る補助線を最初に引いておく。

最初の話題は、ポストモダンの都市批判の話。伝統や様式に従っていたプレモダンから、画一化、規格化、合理化を目指したモダニズム建築と都市。ヒルベルザイマーが描いた都市のスケッチのように無機質で管理統制された非人間的な風景に対する、ポストモダン側の批判を確認する。

モダンが重視した「理性」に対して、ポストモダンは疑問符を立てて、複雑で多様で混沌とした人間の精神と、それが現れたデザイン様式を唱える。そのあたりをチャールズ・ジェンクスとロバート・ヴェンチューリの言説から解説する。

世界の全ての様式が集められたラズベガスの建築、看板と建物が一体化してデコレイテッド・シェッド、機能と表象が一体化したダック建築などを辿る。最後の方はフランク・ゲーリーとダニエル・リベスキンドの脱構築主義建築まで紹介する。

一方で都市デザインの方がどのような展開をしたのかを、オスカー・ニーマイヤーのブラジリア、丹下健三の東京計画1960、黒川紀章のメタボリズム、槙文彦のグループフォームまで見ていく。

二つ目は景観の可能性と限界について。ピクチュアレスク的な美や建築家の造形という主観的な風景概念から、客観的に眺めの快適性を計測・分析すると景観という概念への移行を見ていく。ケビン・リンチのイメージマップ、樋口忠彦の景観工学などを確認しながら、景観施策としてどのように展開されたのかを見る。

一方で、計測には客観的でも計画の際に主観的な価値判断が入るという限界も確認する。首都高の日本橋区間の地下化について、「惑星ソラリス」の未来都市のイメージと対比させながら景観の価値判断の難しさを追いかける。

また伝建地区などの景観保護とレプリカの微妙な境界線について、太秦やハウステンボス、大阪城などの事例を交えながら、景観概念が持つ限界も見ていく。ある景観が生成するには原因があるのに、結果だけをコントロールする限界と、意味特性をどう含めるのかの課題も確認する。

三つ目の話題は、自律生成される都市について。多様で複雑だが統一された有機的な都市形態がどうすれば生成されるのか。それを作ること諦めた70年代の建築家や計画者たちは、都市を計画するのではなく、計測する旅に出る。バーナード・ルドルフスキーの「建築家なしの建築」展、原広司の集落研究を紹介しながら、土着的でアノニマスな建築や集落の可能性について見ていく。

一方でそれをデザインに移すときに景観と同じような矛盾が生じる限界も確認する。生活の必然性が生み出す景観について開かれた可能性を示すために、九龍城砦の持つカオスのリアリティを説明する。

その流れでホームレス建築や屋台の風景、アトリエワンの「メイドイントーキョー」、僕も共著で参加した「マゾヒスティックランドスケープ」など、これまで評価の対象でなかった景観にまなざしを向けたフィールドワークを紹介。リアルな生活景は、裏側に生成原理があり、それが人々の間で共有されるからこそ、街が生きた景観になることを確認する。

その流れで四つ目の住民目線の都市計画の話へと入る。都市の中での人々の共同性が、結果として生活景を生む。それは大文字の都市計画とは違う小文字の都市計画で、生活実感の中からしか生まれない。20世紀の後半にその可能性を考えていた二人の女性を紹介。

一人目はジェイン・ジェイコブズの街路の復権について解説する。映像と共に都市の多様性を生む四つの条件について見ていく。それが21世紀に再評価されたリチャード・フロリダのクリエイティブシティ論も合わせて見ていく。フランスのナントの事例をロワイヤル・ド・リュクスの映像と共に見る。ただ創造都市論の限界についても、ジェントリフィケーションという概念と共に考察する。

もう一人はドロレス・ハイデンの場所の力の話を紹介。都市の何でもない場所について、そこに住むごく普通の住民が語る物語が共有されるプロセスについて見ていく。そこからワークショップや、参加型まちづくりやコミュニティディベロップメントにつながる流れも見る。

事例としては一応ベタだが、ポートランドの住民参加の仕組みとNPOシティ・リペアの取り組みを紹介。そこでタイムアップになってしまったので、社会起業家の可能性と限界については全部話せなかった。

本年最後の講義なので、気合入れて行ったらタイムアップになって何とも歯痒い。雨後の筍のごとく出てくるアントレプレナーの中には単なるビジネスとして地域から搾取するだけのスタンスもあることを伝えたいし、まちづくりに関わるには外からではなく自分ごととしてリアリティもってせねばならないことも確認したい。

この話題はしっかりと伝えねばならない部分なので、来年度に再度トライしようと思う。前回の「消費」の講義についての学生のパピルスを読んでいると、狙い通りナルシシズムの部分がかなり響いたようだ。今日も全員出席で一人も寝ていなかったので、面白い講義と思ってもらえると勝手に思っておくことにする。

●12月23日/23rd Dec
ずっと日が確定できず急遽今日に決まった手術が、16:40に開始して、先程終了の連絡が入った。まだ麻酔は効いたままだが、ひとまず手術としては終了。心臓外科の先生というのは本当に大変な仕事だとつくづく思う。今日は早朝から徳島に日帰りだったので、結局こちらが禅定に入れたのは20:00ごろからだが、麻酔が効いて開胸してしばらくしたあたりだろう。

今日は冬至で、物事が解け始める日だが、何と色んなことがあった日か。ここ数年の課題、ここ数ヶ月のわだかまり、ここ数週間の出来事、ここ数日気になっていた件が。それぞれ解け始めて新しい状態へと向かい始めた。そこに一日の最後で大きな手術があり、ドッと疲れた。しばらく誰にも会いたくない感じ。

●12月23日/23rd Dec
先日のラジオ関西のトークがウェブにアップされたので一応シェア。ランドスケープなんちゃらという肩書が段々ズレているのでそろそろやめたい感じ。

●12月24日/24th Dec
言葉で語られる内容など信じるに値しないと思っている。言葉などいくらでも嘘をつくことが出来るからだ。いくら丁寧な言葉を使おうと、いくら汚い言葉を使おうと、どういう心持ちが背後にあるのかは端々に現れる。だから心を読む人間に対して言葉は役に立たない。

誰かに対して使う言葉にはどこかで必ず嘘が入るし、言葉は嘘をつくためにあるようなものだ。でもどうせならその言葉を自分に対して使って、自分の嘘を見抜くために使う方が言葉の使い方としては智恵があるのだろう。

●12月24日/24th Dec
クリスマスになると、いつもこの詩をシェアするようにしているが、今年は自分の空間作品の写真と共に。ニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に掲げられた詠み人知らずの詩で、特定の宗教にもとづくものではない。今年も相変わらず世界では大変な災いに溢れ、来年はさらに厳しくなりそうだが、理不尽な状況に拳を振り上げて抵抗するのではなく、己の生を見つめて謙虚に祈るチカラを信じる人が増えればいいと願って。

「病者の祈り」

大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった

より偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞きとどけられた

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ

A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...

I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...

I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...

I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...

I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...

I got nothing that I asked for -- but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.

I am among all men, most richly blessed!

●12月25日/25th Dec
ひとりぼっちになる覚悟は出来ているし、もうとっくにあちこちで干されているので、今更言いたいことを我慢する必要もないか。ただ常に慈悲の心だけは共にしておかねばなるまい。人には好き嫌いもあるし、こちらが誠実にいったとして誠実さで返してもらえなくても仕方あるまいよ。

●12月27日/27th Dec
我々は今日一日の終わりに、暖かく安全な部屋で眠ることが出来る。お腹いっぱいに食べて、ネットで映像を見て笑って、時々政府を批判したりして、疲れたらそろそろ寝ようかと布団に潜り込む。

世界の反対側では、飛んでくる砲弾に一日中怯えて、サイレンの音で眠れずに夜を過ごす人もいる。たった今も、虫ケラのように扱われて、人権も尊厳も奪われて、怯えて震えて、ただただ今日をやり過ごすことだけを考えて生きている人たちがいる。

どちらも同じ人間だ。だが、たまたまその土地にその時代、その人種、その立場で生まれただけのことで、生活のリアリティは全く異なっている。それを共有することは難しいかも知れないが、自分と違う現実を生きている人々を想像することは出来るはずだ。

我々は物事を簡単に抽象化して客体化して眺めることで何かを論じようとする。戦争を語り、正義を論じ、人生を謳う。だが抽象化された思考や語りからはリアリティが欠落しがちだ。人の死を統計上の数字として見ることは、全体を把握できるかもしれないが、個別の風景は感じられなくなる。

リアリティの範囲が狭いと我々はとんでもないことを平気でしてしまう。ハンナ・アーレントは、ナチスのホロコーストで中心的役割を果たしたアイヒマンの裁判を傍聴し、物事の善悪や結果を考えずに処理してしまうアイヒマンの態度に「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」を見出したという。

自分の行為がもたらす結果は頭で分かっているのだが、それを仕事だからと処理してしまう。その凡庸な悪はリアリティの範囲が狭いから起こる。毒だと分かっていても、それを出荷して人に手渡すのは、人間が抽象化されているからで、その毒が自分の子供の身体に入るというリアリティでは捉えていないだろう。

むしろ、いちいちリアリティを持たないからこそ我々は無垢に罪を犯すことができるし、実際にそうやって日々の仕事や言動の中にプログラミングされている。この「無垢の罪」が自覚的な悪よりも解決が難しく、それこそが本質的な世界の問題のようにも思える。社会芸術や社会彫刻の役割の一つは、こうして無垢の罪に対して、リアリティを取り戻すことなのだろう。

●12月28日/28th Dec
昨日28日にラジオ関西の平田オリザさんの番組に出演した記事がアップされました。先週は自分の自己紹介的な部分でしたが、今回は一年の振り返りとして、今の社会の読み取りや、その中でなぜ自分がまなざしを問題にしているかなどをオリザさん、田名部さんと語りました。来年の予測も少し離しておりますので、気になる方は是非Radikoでお聴き下されば幸いです。1週間限定でお聞きいただけます。

●12月29日/29th Dec
新聞も見ないし、テレビも持っていないのでニュースも見ることはないが、たまに店に入ると新聞が置いてある。見出しは政治汚職、芸能スキャンダル、辺野古、万博、米選挙などが並ぶが、距離を置いて眺めると全てが戦争の準備にしか見えない。人の耳目を集めるセンセーショナルな報道は、タイミングを見て何かの意識を導くものと見て、まずは間違いないのではないか。

●12月30日/30th Dec
最近アートから遠のいていたが、少し思うところあり中之島美術館の展覧会に訪れる。コロナ前にテートモダンでエリアソンのまとまった展覧会を見てきたが、今回は個人というより「光」をテーマにテートモダンのコレクションが集められている。

ちょうど今、大学の自分の講義で話している部分と重なるので、学生たちにも進めようと思いつつ、見て回る。印象派から現代へということで光縛りで展示されているが、ターナーなどをゲーテ文脈で捉えるとまた違った感じに見えてくる。

絵画はまなざしの変遷が理解できて、それはそれで興味深いが、やはり現代のアーティストの光の捉え方に同時代としては関心が向く。特に以前に何度も見たことのあるタレルとエリアソンの作品は、作り手目線で見た時に違った発見もあった。

確かに映えるし、作品としてのチカラがあるが、これが単なる図象性が強い客寄せ的なアイコンとなっている感は少々ある。それは昨今の潮流では仕方あるまい。作品のクリエイディビティとは、まだ評価が定まっていない状態の時に宿ると思っているが、美術館や展覧会としては評価が既に盤石なものしか呼んでこれない。

光というテーマにはまだまだ組み尽くせない宇宙的な問いが膨大に残されている。だがコレクションの展示ではそこを追求するのは難しいし、それは今回のチャレンジではないのだろうなと思いつつ、美術館を後にする。たまにはこういう時間も大事だな。

●12月31日/31st Dec
2023年最後の"ごく普通"の一日。他の日と何も変わりはないはずなのに、人の意識が違うと、それが世界に影響する。小さい頃から奇妙に思っていたのは、大晦日に流れている人の集合的な意識。右往左往して、凄くざわついている心が、ある時間帯になるとピタリと止まる。スペインから帰ってきてからは毎年、年越は精舎で迎えていたが、昨年からは独りで静かに瞑想して迎えることにしている。

今年はスマナサーラ長老との対談があり、新大学の講義が始まり、革命放送を終えて、ヒトの学校を始めた。「まなざしの革命」は昨年度の高校入試、大学入試で13校採用して頂いたが、世間的には未だに拡がりが難しい状況だ。生きる指針を示したつもりだが、なかなか多くの人には届かないし、それは仕方がない。

だが、そうしている間に中東が厳しい状況になり、国内外の政治状況も自然環境もますます厳しくなっている。これまでの流れの潮目が変わる様を毎年の年末に感じているが、既に色んな形で現れているのは誰の目にも明らかになってきた。これまでの意識を切り替えることが出来ないと、ますます苦しい状況になっていくだろう。

先日のラジオ出演の際にも一年の総括と来年について話をしたが、世界情勢という大きな変化が来年には生活のレベルに押し寄せてくるだろう。その中で心を落ち着けるには、色んなものを捨てていかねばならない。大きな力に頼るとますます苦しくなるだろう。

社会も環境も混迷を極めていて、その中でどう生きていけばいいのか誰もが分からなくなっている。激流の中で誰も助けてはくれないし、流されないようにするためには、自らが自らを制御せねばならない。やってくる変化に備えて心のシートベルトをしっかりと締め直す必要がある。願わくば多くの方々が健やかに来年を迎えれますように。生きとし生ける全てのものが幸せでありますように。

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