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コスモロジーの病
科学的学術的な研究が「論文」という形式に則って書かれていることで、そのクオリティが担保され、次の発展の礎になることは理解しているし、学生にもそのように伝えてきた。その一方で「御作法」ばかりが重視され、内容はさほど重要視されない状況にも限界を感じる。
そもそも引用せねば何も語れないはずもないが、オリジナリティを担保するためには過去の議論を踏まえねばならず、誰でも認める現象であっても客観的なエビデンスを提示せねば事物が確認が出来ないという枠組みに、いかほどの意味があるのかは疑問に思うこともある。
一度でも仏教を通り過ぎると、我々がエビデンスとしているものなど、根拠が薄弱な妄想であることを理解する。その上で御作法に則ることが時々バカらしくなることがある。
今の社会が病に満ちているのは、その根拠になっている科学が病んでいるからで、その科学が持つコスモロジーに狂いがあるからだろう。それを理解せずに部分的に革命など起こしても意味はなく、革命など都合よく利用されるだけだろう。
コスモロジーとは我々の意識を束ねる大きな想像力でもある。現状のアカデミズムが持つ狂ったコスモロジーのままで新しい学問を立てても病が治るはずがない。若い頃はひょっとすれば芸術がそのコスモロジーを書き換えられるかもしれないと信じていたが、今の"アート"に何ら期待は出来なくなった。
コスモロジーを指し示すはずの宗教もすっかり都合良く正当化の材料として取り込まれ、"スピリチュアル"なるもののもたらした惨憺たる現状に至っては絶望的だ。そんな状況をしっかりと直視することこそ今必要なことであり、社会が滅んでいくのを静かに見る勇気が必要にも思える。その崩壊は勇気さえ持てば案外絶望的なことではないのだろうと。