病気との闘い⑳復学反対派
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist_umakoです。
前回の「病気との闘い」は寝たきり生活をを3年ほどしていた私に降って湧いた復学か退学かの選択肢。
何も考えず「復学」を選択した私。
さて、復学を決意した私に待っていたものとは何だったんでしょうか?
歓喜に満ちた復学ロードを歩んだのか、はたまた涙に明け暮れたのか...
今日は復学への道後編です。
思いつく壁
1年生から4年生の途中までの生活とは大きく異なる事くらいは私にも簡単に想像できた。
3月の上旬まで寝たきり生活をしていた人が、普通の学生と肩を並べて動く体力がまずないだろう。
車の運転免許証は入院中に失効してしまったので大学までの足がない。
第一、一人暮らしができるわけない。
それどころか、私は薬の関係でぼーっとしていて、ある意味ラリっており、話すのもとてもゆっくりで、それ故に途中で何を話していたのか忘れてしまう状態だったのだ!
しかし大学を諦めきれない私を見て両親が納得してくれました。
そして生活面に関しては、父が実家に残り大田原では母が私の生活をバックアップしてくれることになった。
2007年3月15日に梯子に梯子をかけた入院生活が終わり私は退院し、3月24日大田原まで送ってくれた父が帰ったため、本当の母との二人三脚が、そして3月26日4年生としての大学スタート。
あの長かった入院生活を締めくくったわずか11日後に最もハードな4年生のスタートだ。
それでも私は甘かった。
というのは、いくら私があの状態でも、私立大学だから授業料を支払えば大学側は”Welcome!!Welcome!!”なのだと誤解していたのだ。
今思えば思い上がりもいいところだ。
だから私は大きな天罰が下った。
それが次の高く険しい壁だ。
思いもよらぬ高く険しい壁
復学するにあたり、私は学内のクリニックで言語聴覚学科の教授の医師の診察を受けることになっていた。
4月9日、クッションにクッションを重ね、私の身体の状態に合っていない車いすに乗り、何を話しているのかよく分からない私を見たその先生はこう言いました。
「あなたは言語聴覚士に向いていない。大勢の人に迷惑をかけ、それでも自我を通そうとする態度はこどものわがままだ!!」
そう言われた私はただただ泣くしかありませんでした。
私が言語聴覚士を目指すことはそんなにわがままの駄々っ子なのだろうか?と、悔しい涙と悲しい涙が入り乱れ止まりませんでした。
翌日もう一度受診をした時、
「実習については5月まで待ちumakoさんの様子を見て判断する。昨日は少しきついことを言ってしまい、僕も心が痛んだ」
と言われ、心が重症なのはこっちだ!と思ったことを覚えている。
4月17日、学科長との面談に私は再び大泣きすることになる。
「STに向いていない!」
と、同じ事を言われる。
というのは、私の状態(車いすに座っていることもままならない)や話し方、そして痛み止めとして使用しているオピオイドも問題だと主張していた。
甘い考えでいた私は、学校がスタートしてからダメ印を押されお先真っ暗だった。
救世主現る
しかし私はまだ絶望していなかった。
学科長と面談があった5日前、4月12日に私は4年生の途中までお世話になっていた学内の施設リハビリテーションセンターを再び使用するため、リハビリテーション科のG医師の受診を受けていた。
学科の教授に私が夢を実現することはこどものわがままだと言われていていた後だったため、同じようなことを言われるのではと緊張していた。
私と同じ線維筋痛症の患者を診たことがあると語ったG医師は、私と母に、
「線維筋痛症の患者さんの痛みはその人にしか分からない。その人が痛くて何もできないというなら無理なんだろうが、痛みと折り合いをつけてやりたいものがあるのなら、周りの人も含めてやり方を工夫すれば実習も可能だよ」
という心強いことばをいただいた。
今となっては細かい日付は分からないが、恐らく私が学科長との面談の前後にG医師は学科長に、私に言ってくれたのと同じような話をしてくれていたのだろうと後に母が言っていた。
「受け入れる側の工夫も大切だ」
と。
その口添えのおかげで、GWが終わった後の5月8日の学科長、アドバイザーの教授、他教授陣との面談は「実習について」と前向きな話し合いだった。
きっとこの話し合いまでに学科会議で私への対応について幾度となく話し合いこの場が設けられたのであろう。
「すべて先生が付き、私1人で実習」
「最初の1年を実習、2年目の1年を体調管理・卒業試験・国家試験に分けて4年生を2年で履修すること」
という、1か月前には想像だにしなかった、華やかな大学4年生(1周目)をスタートすることができた。
5月10日、再びG医師を受診した時、
「全面的にバックアップするからがんばれ!!」
という嬉しい「がんばれ」のことば、その時の私がどれだけ心強く感じた事か。
終わりに
先日も記事にしたが、線維筋痛症や慢性疼痛に苦しむ患者は「がんばれ!」という言葉が苦手だ。
それは、もうすでに激しい痛みを周りに悟られない様に「がんばり尽くしている」からであり、「がんばれ」と言われることは励みにならず、その人を追い込むだけだからである。
しかしあの時のG医師の「がんばれ」はとても暖かく、いつものように鋭い刃で刺されるようなそれとは異なった。
ことばとは、不思議なものである。
そして今私は思う。
高校で留年した後の先生方の暖かい声かけにしても、大学4年生の止まった時計の針を動かした時も、何て理解のある周囲に恵まれたのだろうかと。
1学年100人なので4学年で400人を相手にしている先生方が、一時は「言語聴覚士に向いてない」とまで私を突き放したにも関わらず、私のために教授陣の内から1対1で私の実習を許可してくださったのだ。
今更ながら感謝してもしきれないな、と。
こうして私の新たな4年生(1周目)はようやくスタートしたのだ。