病気との闘い㉔夢を叶えるために
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist_umakoです。
この記事を書いたのがずいぶん前になってしまって申し訳ありません。
なんとこの記事を書いたのが6月の末…。
自分でもどこまで書いたのか忘れてしまい、前に戻って読み返したりしちゃいました。
待っていたかは分かりませんが、みなさんお待たせいたしました。
その後の私の大学生活です。
壮絶!集中講義!! その時両親は…
私はこの集中講義に出席するために一度臨床実習をお休みしていました。
私の大学の言語聴覚学科の4年生は卒業試験の前に「集中講義」を受けなければなりませんでした。
この集中講義がまた、ハードで…
2007年11月12日より一週間行われた集中講義は90分1コマで、朝の9時から1限目が始まり、なんと1日が終わるのが7限目が終わる21時近く!!!!
一般の学生も1日が終わるとげんなりしていました。
そんな中私の体力が持つわけがなく…。
私が力尽きて、いびきをかいて寝ている最中、私の横に酸素ボンベ交換するために一緒に集中講義を聞いていた私の母が、専門用語は全部ひらがなかカタカナでプリントに記入してくれていました。
今となっては笑い話ですが、当時の母は集中講義の最中、肩身が狭かったことでしょう( ´艸`)。
実は、この集中講義以前に両親は学科長と、私のアドバイザーの教授に呼び出されていた事を、私は十何年の時を経て知る事となる…
4年生1回目の卒業試験
4年生1回目と言っていいのか、2回目と言っていいのか、とにかく復学して1回目、2007年12月3日に受けた卒業試験は儚くも散ってしまった。
この時私がショックを受けていたのかすら覚えていない。
もっと言うと、私は4年生2回目にしか卒業試験は受けていないものだと思っていたくらいで、この時の記憶が一切ないのだ。
この時の私の結果を容易に考えられていた学科長と私のアドバイザーの教授は、集中講義前に私の両親を呼び出し、
「国家試験はもう諦めた方がいい」
と言っていたらしい。
あと1年私にはあったはずだったのだが、あと1年あっても私はとても大学生活を普通に送れていなかったのだろう。
言いたくもない事を当時の学科長やアドバイザーの教授に言わせた私は罪深い人間だと今とても感じる。
1回目の卒業試験の後の私
私の大学は医療福祉の総合大学をモットーにしていたため(⁉)、以前も書いたことがあるが、大学の敷地内にクリニック、言語聴覚センター、リハビリテーションセンター、重度心身障害者施設、重度心身障害児施設等が備わっていた。
1回目の4年生の後半から私は大学内の施設の重度心身障害者施設にショートステイでお世話になっていた。
卒業試験前の私について、
「最近学校に行けていない」
「umakoさんの体調が悪い」
「精神的に問題があるような気がする…」
などと、まるで親の様に両親に連絡してくれていたらしい。
一方、年が明けた2008年1月、学科長から三者面談を、という事で親が呼び出されると、
「学科会議でもプロになるための実習ができていない」
「umakoさんのレベルが低すぎ」
と問題になっている、と。
1~3年生までの私には想像できない言葉が頭の中をグルグル回っていた。
きっとこの頃の先生方は、悪い意味ではなく、「2回目の4年生」という選択を奪う事で、私にその時の私らしい生活を送った方が幸せなのではないかと私の身体を案じてくれていたのだと今はそう思える。
しかし私の取った選択肢は、「卒業を!」「国家試験を!」、そして「言語聴覚士になるんだ!」でした。
その頃の私はいい意味でも悪い意味でも怖いもの知らずだったんだと、あとは、両親にどれだけ負担をかけているのかを分かっていなかったのだと思う。
終わりに
多分、先生方はあれでもかなりオブラートに包んだ優しい言い方だったのだろう。
しかし、先生方の説得、ビルの屋上から落とすような言い方をしても私の意志は変わらなかった。
私はこれから過ごす2回目の4年生に覚悟が必要だったけど、あの時私に果たしてそんな覚悟があったのか?
それは長い長い道のりだった。
つたない記事ですが、サポートしていただくと俄然やる気が出ます!!🙂🎶 私の"やる気スイッチ"も入りますので、あなたの心に響いたらぜひよろしくお願いします。