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はじまりの物語㉜ その日
応和3年8月23日
その日はよく晴れ渡っていた
鴨川の水面がキラキラと輝く
あの修羅のような災害からも人々は逞しく立ちもどる
市の聖とよばれ、市井にでれば手を合わせ微笑み
挨拶を交わす
そんな日が続くと特に仏の教えを広めることなど
無用かという気もしてくるから不思議だ
だがしかし、あの修羅の中にあっても
皆と一緒になって炊き出しを行い
汗をかいて力仕事をした日々は
生の充足感に溢れていた
あの天皇の法要の際、皆で声を合わせて
読経をした、あの一体感
韻を踏んで声を出す、その行為の高揚感
一人経典を無心に書き写す心の静寂が空とすると
それもまた空であった
温かな空気に満たされていた
貴賤清濁一切問わず、一体となれたら
南無阿弥陀仏を唱えて
みんなが浄土に映し出されると同時に
一人ひとりに浄土が照らし返され映し出される
それはその瞬間は
この地上が浄土といえるのではないか
40を過ぎてふと夢見たそのような想い
賛同してくれるものがひとりふたりと増え
今日、この日この場所に集まってくれた
宝殿を造り招いた僧侶は600名
金字で書き写した般若心経も同様に600巻
いくばくかの貴賎を払えば誰でも参加できるとし
市井のものも次々に岸に集まってくる
実頼は右大臣となっても変わらず
陰に日なたに援助もしてくれたが
市井のものと変わらぬ、一般参加してくれた
一水は60になっていた
大きく年輪を刻みしっかりと根を張っている
達吉は先に往ったが浄土で見ていてくれるだろう
道風は身は老いたが健在である
今日この場所で
般若心経読経による供養会を行う
高らかな一水の掛け声に呼応して
低く重厚な経が辺りに響き始めた
その前の晩、一水は蛇に向かいあい
今までのお礼だよ、と透き通る器に酒を注いだ
それと、これ、約束だったね
そういって革袋からきれいな玉を2つ取り出した
かの者と、京を立つ前の一葉の思いの玉である
ここまで一緒にいてくれてありがとう
もう明日の供養会で思い残すことはなにもない
君もどこでも好きなところにいっていい
この者との使命が終わったら、縁を断ち切る
あのとき天帝に言われた言葉がまざまざと蘇る
別れたくはない
いつだってこの者はきらきらときれいだった
君は出会ってからちっとも変わらないね
僕はほらこの通りしわだらけだ
そういってくしゃくしゃに笑う
分かたれたくない
そういう蛇にこの者はいった
みんな誰しもそうさ だからこそ
一体になることが何よりの至福なのだよ
明日はこの世の至福、
浄土の映し世を皆で味わいたい
誰より私は欲が深いのかもしれないね
私も別れがたい、
だが君のようにいつまでも生きてはいない
だから、お別れをいうのは今ここでにする
詰まるような思いを収めて
最後に軽くこう言った
ありがとう
蛇は、アリガトウ のコトバも
言えるようになっていれば良かったと
お酒の上に涙を一滴ポチャンと落とした