性別そのものを嫌悪してたXジェンダーの話。
ぼくはXジェンダーを自認している。
この自認を以てそれなりの年数生きていて、幸いにして(?)現時点ではすでに悩むとかいうあたりは遙か彼方。
自分はここで落ち着いてしまっていて、
周りの友人たちも知ってたり知らなかったりなりに受け入れられていて、
もはや馴染みすぎて当たり前のようになっている。
もちろんXジェンダーという言葉に出会って、それが何事もすべて解決してくれるなんて都合のいいことがあるわけはなく。
ぼくもXジェンダーという言葉にぶつかって、そこからこうなるまでにはそれなりに紆余曲折というか、悩んだりとかうまくいかないこととか、自分の中の揺らぎに振り回されたりとかしていた。
まぁでも、AロマとかAセクとか、そういう話に至るよりもずっと昔の話だ。
ジェンダーに対する違和感って強烈だよね
身体性に対して社会的に与えられる性別、所謂ジェンダーってやつは強烈だ。
男の子だから、女の子だから。
そうやって物心もつかない頃から意識に刷り込まれていく。
いくら最近は理解のある親が増えていると言ったって、社会はまだそういう構造をしていない。
なにが好き?どれがいい?すきなキャラクターは?
自我を持った自分の選択は、
『女の子』を育てていた親を困惑させたであろうことは想像に難くない。
初めの違和感は小学生のころ。
ぼくの母はスカートを穿かせたがった。服装から髪留めや結び方など、まるで人形のようにされていた。
兄弟中唯一の女児であったから、その期待は一極集中したと言っていい。
かわいらしく、女の子らしく。
与えられる色は赤やピンク、パステルカラー。
ぼくが選んでもなんだかんだと渋られたり、与えられるものはかわいらしいものばかり。
悲しいかな、小学生の自分の選択は、親の願望に潰されるものでしかなかった。
今も忘れないのは、青と赤のカバーの色鉛筆。
中身は同じ。
兄と僕でわかるように色違いにしよう、どっちがいい?と。
ぼくは青がほしかった。
「あおがいい」
そう言った。
兄は「おれはどっちでもいいから、赤でいいよ」と。
結果は、「女の子だから、あなたが赤ね」
だったら選ばせるなよ、と未だ根に持つ出来事である。
ちはやさんはとても根に持つ人なのだ。
これ、選択の対象に弟がいないところを鑑みるにおそらく幼稚園児くらいの出来事になるが、
たぶんお絵かきやなんかするたびに自分と兄の色鉛筆を眺めては繰り返しくりかえし思い返したんじゃなかろうか。
自分には『女の子だから』という理由で与えられなかったものが、
他方、『男の子だから』という理由で無条件に与えられる兄がいて。
これは比較対象を変え、比較の相手も変わりながら、
しかし家だけでなくいろんな場面で何度も繰り返した。
いろんな場面で、たくさんの人がぶつかってきた壁の一つなんだろうと思う。
逆にだれかが『男の子だから』と与えられなかったものを、
『女の子だから』と享受してきたものも当然ながらぼくにもあるだろう。
ぼくにとって少々の救いだったことは、兄がそういう自分の立場を忌避していたことだろうか。
まぁそんな体験はあったものの、この頃はまだ自分の身体性への違和感はさほど持っていなかったように思う。
ただ、小学生の自分は、家庭内で生産されるジェンダーの枠に押し込められながら違和感を濃縮していった。
自分のもつ女性という性別に嫌悪感を増やしながら。