Xジェンダーの一人称の話。

わたくし。わたし。あたし。ぼく。おれ。自分。わし。わい。etc.

日本には多様な一人称がある。
公的、私的、相手、立場など、
一般的には場面に応じて、役割に応じて使い分ける人がほとんどだろう。

それぞれの一人称には”役割”や”分類”が付属している。
例えば『男性が使う一人称』『女性が使う一人称』みたいな認識は、誰しも無意識のうちに持っているだろうし、この社会に浸透していると思う。
(一人称の性を気にする、という時点である意味でジェンダーにゴリゴリに縛られているのだけれど、実際社会の中で生きてるんだからしょうがないじゃないですか。だって常に突き付けられて生きてるんだもん。)


一人称は、特に自分の性別に違和感を持っている人間にとっては悩ましい問題の一つじゃないだろうか。
少なくとも、ぼくにとってはそうだった。

外見同様『本人がどう見せたいか』という意志がそこに表現されるからだ。
少なくとも身体の性と”違う性の一人称”をあえて選ぶことは相手にいくらかの違和感と邪推(でもないけれど)を招くことは間々あることだろう。


会話の中で用いることで相手に見せる、周りに見せる自分

自分の認識する自分の性と、他人が認識する自分の性の不一致。
あるいは周囲の人間が認識する性に合わせることで生じる自分との不一致。


「うるせえ!社会が周囲が認識する一人称の性なんて知ったことか!俺は俺の使いたい一人称で生きるんだ!!!」

なんて強火の啖呵を切れるほど割り切れて生きていなかった。
どちらかといえば子供の頃はそこまで考えてなかったと思う。
当然といえば当然なのだけど。

「女の子なんだから『わたし』って言いなさい」

親とか、ちょっとおませでお節介なクラスメイトとかにね。
言われるようになるわけです。
知ったことか。
『わたし』がいくら男女ともに使われているとはいえ、 
男性が使用すると公的な一人称とみられるのに、女性が使用すると女性の一人称としてみられるのって不思議なんだよな。

この頃に関しては誰に言われてもそれなりにスルーし続けた。
結果、友人はこういうやつだなって慣れていくし、そういうのが嫌なら離れていくし、コントロールしたがりの母親ですら数年で諦めた。そう言えば父親には言われたことなかったな。


今は『ぼく』を多用するぼくだけれど、当時は『おれ』で生きていた。小学生の高学年くらいにはすでにそうだったと記憶している。
まだトランスジェンダーという単語も知らなかったと思う。
もしかしたら周りの大人とか少し知識のある人なら、そう思ってたかもしれないね。
今になってみれば当たらずとも遠からず、というところか。


年齢が上がるにつれて分離されていく男性性と女性性。
求められるジェンダーと、違和感から徐々に確立されていく性自認。

女性性への反抗心と、自己表明の手段。

特に実家にいたころは母が女性であることを常に突き付けてくるタイプの人であったので、女性的な状態を維持しなければいけない、という心理的な負荷は大きかった。女性性への嫌悪バリバリなのに女性性押し付けてくるとかあの人ほんと意味わかんないんですけど。
反抗の手段が男性的一人称使うことくらいなら随分かわいい反抗期だ。


自分の一人称は小学生の頃には『俺』であったし、
中学生も高校生も『俺』であった。
この辺はもう、意地だった。誰に何を言われようと。
女性性嫌悪の、自分の身体への嫌悪がピークの時期だ。

ところで恵まれていたのか御縁だったのかちょっとよくわからないんだけど、ぼくの周り、なぜか一人称『俺』の(生物学上)女性が誰かしらいたんですよね。
中学の部活の先輩たち、高校の友人たちとか。
類は友を呼ぶのかなぁなんて思ったりもする。
特に高校の友人は、誰も知ってる人がいない学校に進学したという共通点の3人だったにもかかわらず、即馴染んだ。
未だに旅行とか行ったりする。すき。

大学生の頃は気心の知れた仲間内では『俺』だったり、あまり関わりのない集まりとか、アルバイト先とかでは『わたし』だったりもした。

今はわりと気分次第で使う一人称がコロコロ変わるので、それほど実は拘りはなかったりする。
これは完全に自分の身体の扱いに準じているなぁと思う。ときどき女性装にノリノリになるのと同じ。
お外(仕事とか)なら『わたし』かな。ビジネス会話。女性であることをすごくすごく求められないという点では今の仕事でよかったなと思う。

気にしない会話ならその時の気持ちで一番馴染むものが出る。
『ぼく』『俺』『わたし』『あたし』あたりは使っているかな。
ただ、『ぼく』『俺』の方がプライベートでは圧倒的に使用頻度は高いなというのが最近の観測。


女性の身体への拒否感と、男性への憧れみたいなところが原動力だった。
だから意識を逆に振ることで、自分が持ってしまった身体の性とのバランスをとっていた。
一人称を固持することで気持ち的な支えになる部分もあった。

そう考えると自分を固定しなくなった、する必要がなくなったのが今の自分の落としどころなんだろう。

諦めた、とはちょっと違うので、
そのうち自分で上手く言葉にできればいいなと思う。

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