ぼくが愛している人たちの話

古今東西、山ほどの喜劇や悲劇を生み出してきたもの。

家族、親子や兄弟のような血縁関係、
あるいはまったくの他人同士を結びつけるファクターとして語られるもの。

愛。

これだけ多く語られ、語り継がれ、
誰もが何かしらの感情を向ける/向けられる上で触れてきたもの。
だれもが存在を認識していて、
だれもが知っているような言葉でありながら、
姿かたちどころかその輪郭もあやふやで、ぼんやりとして、
それがなにかもよくわからない。
これほど『ある』と信じられながら、これほど曖昧な存在。


それでも『愛』だな、と思うことがある。

愛、と一口にいっても、種類も中身も温度もまちまちだ。
同じように見える、語られるものもあるけれど、
全く同じものはどこにも存在しないのだろうと思う。
自分から向けるものも、自分に向けられるものも、
何一つとして同じものはないのだと思う。

『その時』の関係性が生み出すもの。


ぼくは仲の良い友人には気軽に「愛してんよ」「好きだよ」とか言ったりするけれど、それは軽口の延長というか、
それが正しく友愛として伝わると思うから言えるのだと思う。

愛している。

とても気恥ずかしい響きの言葉だ。
真正面からなんて、たぶんぼくはとても口にだせないだろう。
真剣に、というか、自分の持つ感情が大きく、深くなればなるほど、
そして相手とのギャップが大きくなればなるほど
それを相手に見せることが恥ずかしくなっていくように感じる。



たとえば、兄弟。

ぼくはわりとブラコンである。
兄は兄で大事にしているし、元気かなと思うし、
弟は弟でしょうがないやつだなって思いながら、
かわいいと思っているし、
どちらにでも頼られたら手を貸してしまうだろうし、
できることはしてやりたい、と思っている。

ぼくは彼らを愛している。

そう思う。
これなんか、絶対面と向かっては言えないタイプの愛だなと思う。
気恥ずかしいとかいうレベルの話じゃない。

それでもぼくは、愛しているのだ。
そう確信をもって言える。


まぁしかし我が兄弟、揃いも揃ってものすごく独立している。
会えばそれなりにしょうもない会話を繰り広げるし、それなりになんとなく居心地がいいのはさすが十数年ともに過ごした兄弟だなと感心してしまう。
が、全員驚きの連絡不精である。
実家に集まることもなくなった今となってはもう会う機会もないんじゃないだろうかと思う程度には我が家は解散してしまっている。

兄が連絡を寄越すのは「たまねぎに『メークイン』って値札ついてた」とかだし、弟は「今はベイスターズ(野球)推し」っていう情報がきたくらい。

ただ、連絡がなくても『どっかで生きているんだな』って思うし、
それで『いる』と思えていること、
それで縁が切れることとかを不安に思わないのは不思議なことだなと思う。

「どこかで元気にやっていてくれるならそれでいい」

本当に、ただ、願うことはそれだけなのだ。

これもぼくが人に向けるある種の『愛』の形なのかなと、
いつからかぼくは思っている。


これを『愛』だなと、
そう思ったのは、ある友人に向けた気持ちからだった。


ぼくが大事にしていなかったぼくを、大事にしてくれた人。

つらくて、苦しくて、
生きることを前に呆然と立ち尽くしていたぼくに手を差し伸べた人。

なにもできずに蹲っていたぼくを立ち上がらせた人。

生きるのを諦めかけたぼくを、生かした人。

ただ黙ってそばに、一緒にいてくれた人。


もう連絡を返してくれることもなく、
どこにいるのかも教えてはくれない。

ただ、拒否されることのないメールだけが、
あの人とどこかでつながっていると、
どこかにいるのだと、それだけを教えてくれる。


本当に、大事だった。

恋愛感情とか、そういうのではなく。

ただ、当たり前の、
見逃してしまうような、
家族のような、
なんでもない愛情だった。

なんでもないそれに、お互いにただ、当たり前のようにいたのだ。

あの人を愛している。

もう届くことのないこの言葉を、
届かなくなって、何年も経ってからぼくは宙に舞わせている。

どこかで元気にやっていてくれと、それだけを祈っている。


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