恋愛感情を持たない。

ぼくは恋愛をしない。
世間一般に言われるような恋愛ができない。
そういう感情を持つことができない。
今現在の自分をそういう『状態』だと認識している。


なぜ『そう』なのか。


これに関しては個個それぞれに様々な意識や認識があると思う。
一度も恋愛感情を持ったことがないとか、恋をしたことはあるとか。
恋愛感情が「ほしい」という人もいれば、「わからないし、いらない」というひともいるし、「気持ちが悪い」という人もいる。
『恋愛感情を持たない』という括りにいる人の中でも、とにかく色々な意見を見る。

ないことのを把握するのは難しい。
断定はぼくにはできない。
今はないかもしれないし、今後あるかもしれないし。
そもそも『ない』となにがないのかもよくわからないな、とか。
『ない』ことの持続性とか、『ある/ない』こととか。
形がないものにあれこれ言うのはむずかしいなぁ、とぼんやり眺めている。

だから、正しいとか、間違ってるとか、そういう話ではなく。


ただ、ぼくは今、『恋愛感情を持たない』という『状態』にあり、

『そうなった』と思っている話。



1、恋愛

昔は恋愛感情があった気がする。
気がする、というのもは、今の自分には昔の自分が持っていたものが恋愛的な感情だったかどうかなんて判断がつかないからだ。

「こういうことをしたことがあったな」と思い出すことはできるが、今の自分には感情的な同調ができない。だから今の自分にできることは、こういう行動をしたな、そうだったのかもしれない、そうあの時の自分は思っていた、とただ振り返る。
あまりに他人事のように話すので呆れられることもしばしば。
疑うことなかれ、ちゃんとぼくの話だ。

特定の人に執着し、好かれよう、相手の意識に留まろうと躍起になったことがあり、振られたからと泣いたことがあった。

高校生の頃のことだ。
少しでも一緒にいたいと、その年の頃に思い至るようなことをあれこれと考えていたように思う。できる限り。
誘われればうれしく思い、一緒にいる時間があれば浮かれていた。
同じ車両に乗り合わせてみようとか、学校までの短い距離を一緒に歩こうとか、本当は家から一番近い路線があるのに少し離れたその人のいる路線を使ってみたりとか。

その人の『特別』になりたかった。
独占できるようになりたかった。

世間に言われる恋愛のようなこと。
まるで小説や漫画の中にあるような、
よくある片思いの話じゃないだろうか。
微笑ましいと思う。
そうあるもの、だと思っていたのかもしれない。
人をすきになって、好かれて、だれかと付き合って、いつか結婚をして、みたいな。
そういうものを信じていたこともあったし、テレビや社会やいろんな方面が恋愛とか家族観とかを「そういうもの」として「当たり前」にしている空気は今よりも濃かったと思う。

それが周りの同調圧力のような、「そうするもの」みたいな、そういう先入観による恋愛だったんじゃないかとか。
周りの「誰が好きで」「誰と付き合って」みたいな話に合わせるがための恋愛だったんじゃないかとか。

今の自分はそんなふうに昔の自分を、
今の自分にはわからない藻掻いて足掻いたあれこれを、
否定するような見方をしてみたりもするのだけれど。

でもたぶん、そういうのではなかったと思う。

それなりに本気で「この人と近づきたい」という欲があって、手に入れたくて足掻いて、自分の感情だけではどうにもならないものだと突き付けられて泣いたのだ。
子どもなりの執着で。独占欲で。

これが欲しい。
自分のものにしたい。
独占する権利がほしい。

そういう所有欲に熱を上げて。

本来であれば人への執着なんて、物が欲しいという欲よりもずっと不当なものなのだろう。
物に対価を払うようには得られない。
物が欲しければ所有者に同意を得られるだけの対価を支払うが、相手が人間の場合は『相手の意思』や『選択』がある。(一応本人の意思が優先されるという前提にしておく。)
それが人間関係における対価なのだろう。

一方が会いたいと思ったとして、もう一方がそう思わなければ成立しない。

人は対価を払ったからといって手に入れることができない。
決定権を持つのは本人だけ。
相手の意思にどこかで影響を与えることはあるかもしれないけれど、相手の意思・決断には、最終的に自分は決定権を持たない。(持っている場合はそれはそれで問題があるような気がする。)

自由恋愛という現在のシステムの上では、相互の合意の元に独占欲、所有欲、種々の欲を授受することを許容するという契約。

他人に向ける感情を、欲を、
恋愛という名前をつけることで正当化している

それが世間一般にいうところの恋愛なんじゃないだろうか。


それなりに自分や相手や周りの人間を巻き込み、巻き込まれて。
そういう人間同士の欲の張り合いを、綺麗なもののように飾った言葉。
執着とか独占欲とかを押し込めた言葉。

そういう他者と構築する関係性。
どちらかの、両方の、だれかのなんらかの欲を持って影響し合う、
及ぼし合う関係性。

だから、
あれらは恋愛だったんじゃないかと、ぼくは思う。



2、恋愛感情を持たなくなったこと

今のぼくにとっての恋愛とは何か。

ぼくにとって恋愛感情を向けること、向けられることは、
それは生きていく自分を破滅に導くものだ。



なんか極端なことを言い始めたな、と思われることだろう。


自分でもそう思う。



ぼくはなにを破滅的だと言うのか。
ぼくにとって、恋愛は『なににつながる』ものなのか。



簡単に言ってしまうと、
特に誰かと恋愛関係を持つということはいつかのぼくを脅かすものになる、
と認識している。




例えば、パートナーを持ったとしよう。
ぼくはちょうど、「付き合っている人は」「結婚は」「私があなたの年のころには」などなど、ああだこうだと口さがない年長者たちに言われるような年齢である。
おそらく異性のパートナーを持った場合は、おそらく相手からもそういった話題が提供されることは免れないことだろう。

「結婚したい。」
「こどもを持ちたい。」
だいたい最終的にはこの二つに帰結する。

それは社会的にみれば正当な流れだろう。
一般的に『恋愛すること』は目的ではなく手段であり、
『結婚すること』ひいては『家族を持つこと』が目的である。
それを求められたからと、誰が相手を責められるだろうか。


さて、これらはぼくを脅かすものか。


実のところ、前のパートナーとはそういうことを検討したことがある。

一応前のパートナーと付き合っていたころは「この人と結婚するんかな」とかぼんやり考えたことはあったし、そうなると自然と自分の人生観みたいなものを話す機会はあった。
ただし真剣に人生観、諸々の展望、将来的な話を話すと泣かれたりもして、ぼくは少々呆れていた。(泣けばなあなあにしてくれるんじゃないかって思ってるんだよね。)
彼の望むものは旧世代的な価値観の田舎的な家族を持つことで、ぼくが欲しいのは端的に言えば一緒に生きていくパートナーだった。
この時点で既に話し合いは平行線を辿っていて、「それを望むならそれに相当する女性を探せ」とぼくは言っていた。(泣かれた。)

そんな状態だったのが、
なにを思ったのか、彼から指輪を渡されて、プロポーズをされた。


きっと喜んで受け取ってもらえると思ったんだろう。
そこは結局彼がぼくを『彼の思う願望としての彼女』としてしか見ていなかったというそれだけのことだったけれど。


ぼくはただ困惑し、腹を立てた
喜ぶ要素なんてどこにもない。

前述の通り、ぼくらの話し合いは平行線だった。

それをどこも摺り合わないまま、彼は『なかったこと』にしようとした
ぼくが言葉を尽くして広げて見せたものをすべてなかったことにして、有耶無耶にして、結婚してしまえば、子どもを作ってしまえば、そんなこと言わないだろうって魂胆が透けて見えた

結婚してしまえば?
子どもを作ってしまえば?

気軽に言ってくれるなと思う。



「家族を見て合わないとわかっていたけど、あの人は大丈夫だと思った。」

恋愛の末に、そう言った人が辿り着いた結末は、崩壊だった。

ぼくが知っているのは、子どもがいるから離れられない、仕事もしてない、今更行くところも頼る宛もない、と言いながら、そうして子どもを呪う言葉を吐いて、延々と恨み言を繰り返す自分の親の姿だ。

ぼくは絶対にそうなりたくなかった。
なりたくないし、そうならないための選択をしたい。


そう伝えたぼくに対して、これは。

この仕打ちは。

いくらなんでも、あんまりじゃないか。



悲しくて、虚しかった。

その当時のぼくはここまで言語化して処理できたわけではなく、
ただ、無理解に踏みにじられようとした自分の気持ちを、生き方を抱えこんだまま困惑して腹を立てた。



元々有していた違和感が、
言語化しないまま放置してきた恋愛、性愛、性自認、それらを包括したものたちへのぐちゃぐちゃになった感情が、
明確な拒絶感、嫌悪感につながったのはこの時だった。



触れられることが気持ち悪い。生理的に受け付けない。

自分の気持ちが、理解が追い付くよりも、
身体の方がずっと気持ちを映しているんだなと、今なら思う。

見知らぬ人に身体を触れられて振り払うように。

ぼくの全部が拒絶していた。





ところで、ぼくは今は『恋愛感情を持たない』と思っているが、
昔はそれよりも顕著だったのは『性的な関係への忌避感』だった。

アセクシャルやノンセクシャルの方で「付き合ったら体の関係を持たなきゃいけないでしょう?」という意見をわりとよくみかけるけれど、あながち間違いじゃない。
実際そういう関係を望まれることがほとんどだろうし、アセクシャルだ性嫌悪だと話したところで理解が得られることはおそらく少ない。


ぼくは身体的に女性であり、実際男性と『体の関係を持つ』ということは必然『妊娠』というリスクを負うことになる。
(「リスク」は「危険」というよりは「その事象が起こり得る可能性」として使っている。)
ぼくの『性的な関係への忌避感』は主にこちらに起因する。

『妊娠するリスク』。
それは同時に『経済的自立を失うリスク』も併せ持ってくる。
基本的には、失うことが多いのではないかと、ぼくは判断している。
帰る家も頼る家族もないぼくにとっては(厳密にいえば両親は存命だし家がないわけでもないが、できることなら積極的には関わりたくない相手だ)、自分が収入源を持っていることは生きる手段そのものだ。

この感覚は、大学生の頃から社会人になった今に至るまで10年以上持ち続けている。




恋愛感情を持つこと、持たれること。
それがすべての起点だ。
それがなければその先の関係にはならない。

恋愛感情を向けることで、向けられることで失うかもしれない、友人も失わずに済む。
恋愛パートナーを持つこと、そして身体の関係を持つことで生み出すリスクも生じない。


望まない状況になる可能性を限りなく減らせない限り、
今のぼくは、それらが含むリスクを許容できない。

もちろん零にすることができないことはわかっている
それはなんにしても同じだ。
自分だって相手だって、実際に生きること、起こること、環境の変化、社会の変化、良くも悪くも、先のことは予想することができない。
それでも自分の予測できる範囲のリスクは避けたいし、
自分が、相手が、誰かがいつか関わることならば、避けなければいけないと思っている。ぼくは。




自分はこの先を生きていこうと、思ったから。

自分の意思で、自分の生きたい、
なりたい自分のために生きようと思ったから。

ぼくが過去に依存した、
「生きなければならない」から、「死んだら迷惑がかかる」から、
だから自分を生かしているという生き方をやめようと思ったから。

揺らいでいるなりに、
迷っているなりに、
ちょっとがんばってみようと思ったから。


ちゃんと自分の望むもの、望まないものを、
考えて、選びたいと思ったから。

自分の生活を、生き方を、自分が作り出すこの先を。




考えれば考えるほど、
『恋愛ごっこ』は自分にとって「あると都合の悪いもの」になっていた。


今の自分は『持たない』し、『持ちたくない』。

そうしようと、いつかの自分が決めた。
意識的だったか無意識的だったかと考えれば、おそらく無意識的な防御反応だったと思う。
積み重なって、蓄積されて、自分で気がつく前にはもう、そうだった。

『リスク』を回避するために、
望まないものを遠ざけるために、そうしたんだと思う。

今のぼくにとっては、世の中の言う恋愛というやつはあまりにも、
ぼくが望まない絶対に避けたい未来につなげてしまうものに近すぎる。


だから。




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