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【小説】女の顔
ゆうと君の隣で写真に写る8歳の私は、紛れもない女の顔をしていた。
分厚いアルバムに、日付順に並ぶ写真たち。両親が構えるカメラの前で、子供の頃の私は屈託なく笑っていたり、カメラに気づかず夢中で遊んでいたり、かけっこをしていたりする。
その中に突然現れた。ゆうと君と、女が。
私の地元に引っ越してきたゆうと君は、私と同じピアノ教室に入った。学年が違うので知らなかったけれど、転入した小学校も同じだった。
お母さん同士が仲良くなり、ゆうと君はお母さんに連れられてうちに遊びに来るようになった。
私の3歳年上。背も高い。
一人っ子の私は、漠然とお兄ちゃんやお姉ちゃんの存在に憧れがあった。
でも、ゆうと君が初めて「かおりちゃん」と呼んでくれたその時から、私は本物のお兄ちゃんには抱かないであろう感情を抱いていた。
私がゆうと君のことばかり考えているのと同じように、ゆうと君にも私を見て欲しかった。
だから頑張った。
始めたばかりでまだ片手でしかピアノが弾けないゆうと君の前で、私は「エリーゼのために」を得意げに演奏した。
九九が言えると自慢して、「いんいちがいち」から「くくはちじゅういち」までフルバージョンで披露した。
ゆうと君はいつも、「すごいねえ」と言って拍手をしてくれた。
一緒に行った地域の夏祭りでは、きもだめしをやっていた。
それは暗い林道を歩いて、途中で大人たちが驚かしてくる中、奥の「たからもの」なる大きめのスーパーボールを取って、スタート地点まで戻ってくるという遊びだった。
ゆうと君と並んだ私は受付の大人から「いってらっしゃい」と言われるなり、背筋を伸ばして目的地まで突き進んだ。物陰から飛び出してくる大人たちを無視し、ゆうと君を置いて行かんばかりに「たからもの」を見据えて直進した。スーパーボールを引っ掴むと、スタート地点まで脇目もふらずに早足で戻った。そして自分とゆうと君の親に向かって、「全然怖くなかった」と胸を張った。
本当は怖かったけれど、大人が飛び出してきた瞬間はびくっと震えてしまったかもしれないけれど、精一杯怖がっていないふりをした。
かっこいいゆうと君の前で、虫や暗闇や、いもしないおばけごときにきゃあきゃあ騒ぐ女になど、なってはならないと固く信じていた。
「僕はちょっと怖かったのに、かおりちゃんはすごいねえ」
ゆうと君のその言葉を聞いて、強がった甲斐があったと満足していた。
ゆうと君は、誕生日プレゼントにネックレスをくれた。
キラキラの石が付いていて、私がそれを「ダイヤモンド?」と言ったら、私のお母さんもゆうと君のお母さんも笑っていた。
買ってくれたのはゆうと君じゃなくて、間違いなくゆうと君のお母さんだろうけど。
それでも「好きな男の子からきれいなネックレスをプレゼントされる」だなんて、小2の私には大人すぎて、身に余る幸せで、めまいがした。
手に取って見つめるとうっとりと夢心地になり、首に掛けたらいつでもゆうと君がそばにいるみたいでドキドキした。
それからすぐに、ゆうと君は遠くへ引っ越すことになった。
会うのが最後になる日、私は一番お気に入りのワンピースを着て、もらったネックレスを身に着けた。自分に出来る精一杯のおしゃれだった。一番かわいくなりたかった。
その日の夜は、ベッドの中で静かに泣いた。
好きだったことは、ゆうと君にも家族にも友達にも言っていない。
どうしたらもう一度会えるのだろうとずっと考えていたが、「ゆうと君に会いに行きたい」とは、恥ずかしくて家族には言えなかった。
そうしているうちに年賀状が来て、そこには少し大人びたゆうと君が写っていた。
ゆうと君は相変わらずかっこよかった。でもきっと彼にはどんどん新しい友達ができて、どんどん知らない男の子になっていく。
そのうちに、私の知らない好きな女の子でもできたらと思った瞬間、もう考えるのをやめたくなった。どうやっても、今からじゃ私はその子になれない。
もらったネックレスを見つめると苦しくなった。
貰い物のお菓子が入っていたきれいな箱にしまったまま、しばらく取り出さなくなった。
ネックレスは何年もしまい込まれるようになり、ゆうと君のことも思い出さなくなった。
思い出しても無駄だから。
平日は毎朝、情報番組を惰性で流しながら出勤の準備をしている。
私が寝ぼけた頭で歯磨きをしていると、新シリーズのドラマの宣伝が始まった。
スタジオから映像が切り替わると、「遥野優翔(27)」のテロップと共に主演俳優の顔が大きく映し出された。
そういえば、フルネームはこうだったような。年齢は私と3歳差。そういえばこんな目だった。輪郭はこうだった。スタイルも、当時から良かった。
ドラマの主演俳優「遥野優翔」が、11歳のゆうと君とじわじわと符合する。歯ブラシを持つ手が止まり、半分寝ていた頭が完全に覚醒した。
私のかっこいいゆうと君はどうやら、誰がどう見てもかっこよかったらしい。
ゆうと君がかっこいいことに、私が知らない間に多くの大人が気づき始めたらしい。
通勤電車の中、スマホで「遥野優翔」を調べると、それはそれは華やかな経歴が出てきた。立派にモデルを務め上げている華やかな写真がいくつも出てきた。なぜ今まで知らなかったのかが不思議なほどだった。
ゆうと君と一緒に撮った写真はあるのだろうか。
実家に帰ったタイミングで、アルバムを探してみることにした。
小学2年生あたりのアルバムに当たりをつけ、分厚いアルバムを開いてみた。
あるとしたら間違いなくこの時期なのだが、ゆうと君はなかなか登場しない。
膨大な数の写真を見ているうちに、本来の目的を忘れて懐かしくなってしまった。随分会っていない親戚、当時の友達、変身ステッキのおもちゃ。子供時代へタイムスリップしたようでもあり、幼くあどけない自分自身を見るのがこそばゆくもあった。
そうしていたら、見つけた。ゆうと君と写っている写真を。
ゆうと君はやはり、この頃からきれいな顔をしていた。スマホ越しに見る「イケメン俳優」とは全然イメージが違うけれど、いつもやさしいこの笑顔だったという記憶を掘り起こされる。
しかしそれ以上に目を奪われたのは、隣に写る自分の顔だった。
8歳になったばかりの私は精一杯着飾り、そして彼との最後の時間を憂える女だった。
さっきまで何も考えずに笑っていた少女は、この写真で突然目に憂いと欲望を宿していた。
母親の構えるカメラの前でそんな顔をするくらいなら、もっと早めにかわいく女を出しておけばよかったのに。
ピアノでマウントを取るような真似をしたり、九九を最初から最後まで必死に唱えたり、それのどこがかわいいのだろう。
そんなかわいくない私に「すごいねえ」と拍手をしながら、ゆうと君はどんな気分だったのだろう。
きもだめしの話なんて、ひどいものだ。
彼にかわいいと思って欲しければ、私は無駄に怖がってしがみついていればよかったのに。
あんな大チャンスの時くらい、虫や暗闇や、いもしないおばけごときにきゃあきゃあ騒ぐ女になればよかったのに。
私は女で、3歳も年下で、そうする理由は十分にあったのに。
本当は、あの暗い林道が心底怖かったのに。
埃をかぶった薄いピンクの箱を開けると、ネックレスも見つけた。銀色のチェーンが少しくすんでいるが、トップの透明の石はキラキラと輝いている。しかし今の私には、それがダイヤモンドではないことくらい一目で分かる。
当時11歳の彼がアクセサリーをプレゼントした女は、私が最初なのだろうか。
最初だったとして、一体何の意味があるのだろうとも思うけれど。
「遥野優翔」は、本物のダイヤモンドが付いたアクセサリーを、私よりも賢く女を出せる女にプレゼントしたのかもしれないけれど。
私が女の顔を覚えたのは、あなたが最初だ。
彼が主演だというドラマを見てみた。
仕事や人間関係の悩みを抱えながら、無理して笑おうとするヒロイン。
立ち去ろうとする彼女の腕を彼は掴み、真っ直ぐな目で言う。
「強がらないでよ。俺には弱い所も見せてよ」
うつむいていた女優が顔を上げる。大変可憐で美しい女の顔を、清らかな涙が伝う。
彼が女優にキスをする。
テレビを消した。
ゆうと君はいなくなった。