脳の外へ
先日の宣言通りに、早起きをして夫と共にリングフィットをする習慣が続いている。
起床するなり私は寝室を明るくして夫を強制的に起こし、リングフィットに付き合わせている。
夫は、最近少し瘦せたと喜んでいる。
私も運動の習慣が戻ったことが嬉しい。ほぼ毎朝続けているので、もう筋肉痛にはならない。
こんなに運動が習慣化しているのは結婚式前以来だ。あの時は、「今頑張らなくていつ頑張る!?」という気持ちで3か月間自分を追い込んでいた。
そういった大事なイベントが特に控えていないのに継続できている今の自分、実は凄いのでは?と密かに思っている。思ってもいいよね?ねえ?
リングフィットが終わっても、在宅勤務開始まで時間がある。運動して完全に起きた頭で、文章を書こう。ノートを開いた。
今日も、数行で書けなくなってしまった。
それでもいい、ということにし始めた。「書きたい」という気持ちがまだあることを確認できただけでもよしとしている。
脳みその搾り汁が数滴染みている程度の言葉が、毎日ノートに捻り出されている。この言葉たちが自分の脳の外に残っているだけで、きっと何かが変わっているのだ。何かの意味を成しているのだ。そう思うことにしている。
書くことを諦めた私は、始業まで本を読むことにした。朝井リョウ「生殖記」の3周目。
最近読んだ、柚木麻子の「ナイルパーチの女子会」との違いを感じている。
2冊とも、人間の厄介な部分を描いているところは共通している。特に「生殖記」の方は、「ぐさりと来た」とか「自分の見ないようにしていた部分をえぐられた」といった感想を多く見かけた。
でも私は「生殖記」にはあまりそれを感じなくて、代わりに「ナイルパーチの女子会」に滅多刺しにされて悶絶しながら2周読んだ。
登場人物を通して見せつけられる、自分の持つ愚かさ、ずるさ、甘さ。好ましくない言動だけでなく、それをやるメカニズム、言い訳、本人なりの正当化までもが懇切丁寧に並べられている。それらが私には、“わかってしまう”。
「わかるよ。そう思っちゃうよね。思いたいよね」と寄り添いたくもあり、しかし誤った方向に進み続ける彼女らと彼女らに訪れる結果を眺めながら、自分を省みる。そんな本だった。
「生殖記」で自分を省みる人々と私は何が違うのだろう、と思いながら、今は「生殖記」の3周目を読んでいる。
「生殖記」も「ナイルパーチの女子会」も、人間の愚かさやずるさをまざまざと書いているところは一緒のはずなんだけど。「生殖記」の語り口で読むと、なんかそれらを「面白い」と思えちゃう。「自分の恥を暴かれた」とか、「うわ、これ自分のことだ」とか、ぐさりと来る感覚はなぜかない。
朝井リョウと柚木麻子の仲良しエピソードは、よく朝井リョウのエッセイに出てくる。
同じ部分と違う部分が、上手いこと噛み合っているとか?
我々夫婦はどうだろうか。
仕事が始まった。
未知過ぎる案件が飛び込んできた。分からないことが多すぎる。
たった一人の家のリビングで、ぐるぐる考え続けるが何も前に進まない。パソコンのメモ帳を立ち上げて、そのぐるぐるをそのまま言葉に吐き出してみた。
吐き出した結果、「まずはこの人に聞いてしまおう!」という一つの結論が導き出された。「まずは」のつもりで電話をかけたら、その人が一瞬で何もかもを解決したのだった。
脳の外に言葉を出すことの効果を思い知った。
終業後、夕飯を作った。
パルシステム(生協)が考えてくれた献立。エビマヨと野菜スープとごま豆腐。
今週の献立だと、色んな野菜が半端な量ずつ余ってしまう。
腕組みしながら冷蔵庫を睨みつけ、「あれとあれであれを作ったらあれが余って……」と私がぶつぶつ言ってたら、夫が「全部味噌汁に入れちゃえば?」と言った。確かに。
脳から言葉を出したら、人がその思考を引き受けてくれた。本日2回目。
夜、連想ツリーで日記を書いている。
最近はまとまった文章ではなく、このツリーを日記代わりにしている。書くハードルが抜群に下がった。
この方法は、とにかく脳の外に言葉を出しやすい。どんどん出そう。何でも出そう。全部出しちゃおう。
言葉は脳みそから引っ張り出して初めて、目で見れる。耳で聞ける。人に渡せる。