一年半を経て、映画『教誨師』を観る
大杉漣さんの、最初のプロデュースにして最後の主演作となった映画『教誨師』を(やっと)観ました。
Story
プロテスタントの牧師、佐伯保(大杉漣)。彼は教誨師として月に2回拘置所を訪れ、一癖も二癖もある死刑囚と面会する。無言を貫き、佐伯の問いにも一切応えようとしない鈴木(古舘寛治)。気のよいヤクザの組長、吉田(光石研)。年老いたホームレス、進藤(五頭岳夫)。よくしゃべる関西出身の中年女性、野口(烏丸せつこ)。面会にも来ない我が子を思い続ける気弱な小川(小川登)。そして大量殺人者の若者、高宮(玉置玲央)。佐伯は、彼らが自らの罪をしっかりと見つめ、悔い改めることで残り少ない“ 生” を充実したものにできるよう、そして心安らかに“ 死” を迎えられるよう、親身になって彼らの話を聞き、聖書の言葉を伝える。しかしなかなか思い通りにはいかず、意図せずして相手を怒らせてしまったり、いつまで経っても心を開いてもらえなかったり、苦難の日々が繰り返される。それでも少しずつ死刑囚の心にも変化が見られるものの、高宮だけは常に社会に対する不満をぶちまけ、佐伯に対しても一貫して攻撃的な態度をとり続ける。死刑囚たちと真剣に向き合うことで、長い間封印してきた過去に思いを馳せ、自分の人生とも向き合うようになる佐伯。そんな中、ついにある受刑者に死刑執行の命が下される……。
ほとんどのシーンが教誨室の中で、漣さん演じる牧師の佐伯と死刑囚とのやり取りのみで映画は進んでいきます。それでも全然単調ではなく、驚くほどに没頭してしまいます。
それぞれの役者さんの演技の質の高さや存在感もあるけれど、おそらくカメラワークが大きく作用しています。カメラのゆれがあったり、なかったり。まるで人物の心の揺れそのものを表しているかのような微細な動きに、自分もその場で話を聴いているような気分になってきます。
特に、15人を殺害した高宮死刑囚の言葉には、一つひとつ自分が問われているようで、考えさせられました。
そして、最後の方の佐伯牧師のセリフはどれも、自らの人生において、生と死を見つめ続けてきた者だからこそ発せられる、突き刺さるような力強さがあって、
「私の役目は穴を見つめること」
「開いてしまった穴のそばで、決して逃げずにじっと見つめること」
「生きる意味なんてないんですよ。生きているから生きるんです」
「私はあなたのそばにいますよ」
教誨室の目の前の囚人だけでなく、映画を観ている観衆にも、深く届く言葉だと思いました。
実はこの映画のカメラマンは、映画美学校の映画制作ワークショップに通ったときの講師の山田達也さんで、10日間のワークショップが終わったあとの公開というタイミングだったため、そのときの学びの体験もふりかえりつつ観れるなと、公開前から前売りチケットを買って行く気満々でした。
ただ、どうにも都合が合わなくて、結局公開から1年半近く経って、今のタイミングでやっと観ることになりました。
とはいえ、このタイミングまで観られなかったのは、私自身の受け取る準備が不十分ということだったのだな、とひとり納得をしています。
というのも、昨年は仏教やキリスト教について学んだ年でもあったので、その学びがなくこの映画を観たとしても、「教誨」について考えることなく、単なるドラマ、映画の中のこと、としかとらえられなかったように思うからです。
つくづく本でも映画でも、うまいタイミングで出会うようになっているんだなーと思った次第です。