脳の右側で描くように、聴けたなら
一昨年のゴールデンウィークに、『脳の右側で描け』の5デイ・ワークショップに参加した。
ワークショップは、ベティ・エドワーズの『脳の右側で描け』で紹介されているメソッドを、1つ1つ実践し、感じたことや気づいたことを共有しながら、最後に自画像にチャレンジするというもので、アメリカの大学での1学期分の授業を、5日間で集中して行う。
それぞれのワークの内容は、こちらに詳しいので省略して、、、
私がすごく印象に残ったのが、「1ミリ1秒」で描くワーク。
手の皺、葉っぱなど、対象のものだけをじっと見て、1秒に1ミリ手を動かすくらいのスピードで描いていく。そのとき描いている方の手元は一切見ない。これを5分、10分など、決めた時間のタイマーが鳴るまで続ける。
手元を見ないで描いてるから、こんな風にゲシュタルトが崩壊したような、ミミズののたくったようなものになってしまう。
これは、絵を描くことが目的というよりは、対象を見る見方を、脳の右側モードに切り換えるためのワーク。
これをやると、「手」や「葉っぱ」など、言葉(概念、名前)を通して、ある種のまとまりで対象を捉えていた左脳モードから、目の前のそのものの細部と、細部が構成している全体を等しくとらえる右脳モードになる。
これはやってみるとわかるけれど、脳がじわじわと熱くなる。
見ているうちに言葉や概念が剥がれ落ちていく。
ぐっと集中した後は、しばらく言葉が出てこない。
そして、普段自分が、そこまで詳細にモノを見ていないことに気づく。
世の中のもの、とくに自然のものは、驚くほど精密にできている。
私たちは、たとえば通り道にはえている木の、たった1枚の葉の輪郭や葉脈を、ただただじっと見つめるなんてことは、日常の中でおそらく1秒だってしない(少なくとも私はしない)。
でも、「1ミリ1秒」のワークに取り組むと、驚くほど精密な細部で、葉っぱ1枚という全体がなりたっていることに気づかされる。
それは、自分という一人の個体にしてもそう。
5日間のワークショップの最終日は、自画像を描く。
暗くした部屋の中、一方向からライトが当たっている自分の顔が写る鏡を、穴があくんじゃないかというくらい見つめながら、鉛筆をじりじり動かしていく。
いつも鏡を見ればわき上がるような、「頬がたるんでるなー」といった類の意味づけの言葉は次第に消えていき、鏡の中の自分を見つめている目の、そのごくごく細部を見つめているというような、瞑想みたいな状態になっていく。
「自分の顔」という「意味」がバラバラになり、ただ単に細部の形、光、影、濃、淡の集合体が紙の上に現れてくる。
まとまりとして、概念として、意味として見ない。
けれどそれを手を動かし、写し取っていくと、自分の顔という全体をなす。
私は、そんなふうに「聴けたら」いいなと思っている。
目の前の人の話す内容を、まとまり、概念、意味として受け取るのではなく、細部の言葉そのままと、その人の表情や目の動き、身体の動きそのままを、解釈もせず、置き換えもせず、受け取れたとしたら。
先日書いたモモのきき方のように、
自分をからっぽにして、その空間に、目のまえの人のその言葉を、存在を招き入れる。入ってきたとき、そこに浮かんできたものを返してみる。それだけのきき方。
それができたとしたら、とても豊かな体験を、その人と共有することになるだろう。
そして同じように、そんな風に「書けたら」いいなとも思っている。
目の前のものを、自分を空っぽにして、純粋に描写する。
そのあと、自分の中に「ぽかっ」と浮かんできた「感じ」に、言葉を見つけていく。
まだまだエゴにまみれたこの身では、容易にはできないだろう。
でも、表現というのは「自分が」するものではなく、「自分を通して」されるものだと思っている。自分は、「表現されるもの」の、「通り道、フィルター」でしかない。
だから通り道に障害物を置かないで、フィルターの目詰まりをなるべくなくしておくことが重要で、そのためにこの「1mm1秒」ワークが、「効く」のではないかと思っている。
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