映画『プリズン・サークル』を観て思考停止していてはいけない
1月25日から公開されている映画『プリズン・サークル』を公開初日に観て来ました。
映画の概要
この映画は、取材許可を得るまでに6年、そして撮影に2年。
初めて日本の刑務所にカメラを入れたドキュメンタリーです。
舞台は島根あさひ社会復帰促進センター。官民協働の新しい刑務所です。
受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを日本で唯一導入しています。
彼らが向き合うのは、犯した罪だけではありません。幼い頃に経験した貧困、いじめ、虐待、差別などの記憶。痛み、悲しみ、恥辱や怒りといった感情。そして、それらを表現する言葉を獲得していくのです。
映画を観て感じたこと
映画は数名の登場人物を軸にして展開していきます。
一番驚いたことは、TCの場では各々がこんなにも自分のことを語るのだということ。
相当の時間と、何を言ってもいいんだという安心が確保されない限り、こういった言葉が出てくることはないだろうなあと驚くほどの、率直な語りがされていました。
また、後半の方でロールプレイをやっているシーンが出てくるのですが、加害者役の本人以外の被害者、親、彼女などの役を同じ受刑者が演じます。
その役割を演じているはずの人がすごく泣いている。
彼らの涙には、その役の気持ちがわかるという共感の涙だけでなく、おそらく自分が迷惑をかけた人たちもきっとこんな気持ちだったのだろうという後悔も含まれていたのだろうと思います。
罪を犯した本人も、そんな風に真剣に気持ちを伝えてくれるロールの人たちの様子を見て、自分は周りの人をこんな気持ちにさせていたのかとはっとする様子が見えました。
その他、受刑者たちの悲惨な過去(虐待、いじめ、すさんだ生活など)の話を聞くにつけ、人はもともと犯罪者として生まれるのではなく、環境が犯罪を作っていくのだ、虐待そのものがどうにか防げないものかということを考えていました。
ただ、一方で、そんな薄っぺらい言葉じゃないんだよね~という感じがしてなかなか、SNSやブログに映画のことをアップできませんでした。
もっと「ずしんとした感じ」が身体に残っているのです。
この「ずしんとした感じ」がなんなのか、もう少し言葉を探してみたくて、坂上監督の記事にいろいろ目を通してみました。
TC(Therapeutic Community=回復共同体)というプログラムについて
まずはこのプログラムとはどういったものなのか?ということですが、もともとは、アメリカの民間更生施設「アミティ」が運営しているプログラムで、問題や病気などを抱える「当事者」たちが、互いに影響を与えあいながら、回復を促しあうセルフヘルプ(自助)的空間や、そのアプローチ自体を意味するそうです。
治療や矯正の場というよりも「学びあう場」という側面が強く、スイスの思想家アリス・ミラーの思想をもとに実践されています。アリス・ミラーは、日本では『魂の殺人』の著者としてよく知られていますが、幼児虐待とその社会への影響に関する研究をした心理学者です。ミラーは、残虐な罪を犯す「犯罪者」の多くが、幼児期に受けた深刻な虐待体験に囚われていて、根本的な問題解決には、その被虐待体験を明らかにしていく過程と、本人による受容と自覚が不可欠だと主張しています。
Facebookでもシェアしましたが、こちらの記事では、坂上監督は以下のように語られています。
(坂上監督)自分の罪や過去を語ることは、単純だけど難しい。もし、社会のなかで彼らが語れる場があれば、刑務所に来なくてよかったかもしれません。
――ほかにも、本作に登場する受刑者は、おしなべて壮絶な過去を背負っています。ただ、そのように受刑者が罪を犯した背景を語ると、必ずと言っていいほど「悲惨な幼少期を過ごした人でも、全員が犯罪をするわけじゃない」という反論があります。
(坂上監督)心理学の研究によると、虐待を長期にわたって受けた人たちの約2割が何らかの加害行動をするそうです。8割はまっとうに生きていると思う人もいるでしょうけれど、私はこの2割がかなり多い数字だと思います。また、別の海外の研究報告では、犯罪を行った人たちの8割以上に、暴力や虐待を受けた過去があるとされています。加害者になる前に被害者だった人が圧倒的に多いわけです。そこを手当てしない限り、加害者として罪に向き合うことはできないと思います。自分が受けてきた被害をだれかに受け止めてもらえない限り、感覚的に被害者の気持ちがわかりません。
うん、そう。確かにそう。
「加害者になる前に被害者だった人が圧倒的に多い」ということからは目を背けてはいけない。そうなんだけど、なんかまだ私の中で言葉がつながらなくてもやっとしている。
坂上香監督のこれまでの活動や過去の映画について
坂上監督はもともと、テレビ業界に身を置いていた方で、ドキュメンタリー番組の制作会社のディレクターだったそうです。その経験の中で、暴力や犯罪の背景、欧米社会における対応策のあり方に強い関心を持ち、番組を作ろうとする中でアミティの活動や心理学者のアリス・ミラーと出会ったそう。
その坂上監督が制作し、2004年に公開されたのが『LIFERS ライファーズ―終身刑を超えて』という映画です。米国カリフォルニア州の男性刑務所を舞台にしたドキュメンタリーで、「アミティ」が運営するプログラムをメインに撮影しています。
「ライファーズ」とは、字義通りには終身刑を科された受刑者のことを指すそうですが、坂上監督は「一生罪に向き合い続ける人」と独自の定義をしています。
この映画では、受刑者たちが自分の犯した罪に向き合おうとするプロセスやそのあり様に光りがあてられています。『プリズン・サークル』の舞台島根あさひ社会復帰促進センターにTCが取り入れられるきっかけになった映画です。
詳しい内容は、京都文教大学のリポジトリで公開されている坂上監督のこちらの論文がわかりやすかったです。
この論文を読んで、自分が受け取っていた「ずしんとした感じ」が形になってきました。
受刑者の大半に深刻な被害体験(特に幼少期の被虐待体験)があることは、欧米を中心としたさまざまな研究によって明らかにされてきた。彼らの多くは、福祉・司法・医療制度の網からこぼれ落ちてしまった結果、加害者に転じてしまったといえる。しかし、一般に矯正分野では、この点が無視、もしくは軽視されてきた。受刑者はあくまでも罰せられる対象であり、過去の被害体験を受け止めるという発想自体が存在してこなかったのである。アミティが注目してきたのはこの点であり、被害体験を「徹底的に」語れる場を矯正現場内にも積極的に作ってきたと言える。
(中略)
受刑者の多くは、自らの被害体験を語ったことがない。
このような「被害の語り」が、自らの抱える問題(他者への加害行為や自らを傷つける行為)への気づきにつながるという。言い換えると、「加害の語り」には、「被害の語り」が欠かせない。
「加害者は自らを被害者とみなすことで、責任逃れの口実にしがちだ」とはよく言われることだが、アミティの経験からは、むしろ逆のことがいえる。責任をとるためには、むしろ自らの被害体験に「徹底的に」向き合うことが不可欠であるという。
私が映画から受け取った大きなメッセージ(ずしんとした感じ)は、
「加害の語り」には、「被害の語り」が欠かせない。
責任をとるためには、むしろ自らの被害体験に「徹底的に」向き合うことが不可欠であるという。
ということだ、ということがこの論文でわかりました。
この投稿の冒頭から、繰り返し繰り返し、同じような内容を引用しているんだけど、この論文の言葉が、映画を観た時のように、一番ずっしりと、質量を伴って届きました。
そのあたりについて、また『プリズン・サークル』を観に行って、さらに深めてみたいと思います。
(考えるだけじゃなくてさー、とつっこみも聞こえてきそうですが、まずは自分の中にある「ずしんとした感じ」の正体を明らかにできたのでひとまずここまで)
あらためて、今回映画を観て思ったのは「虐待を止めなければいけない」とかっていうだけで思考停止していてはいけないということ。ということで、まずは理解を深めるための一歩をまとめてみました。
修復的司法という可能性も
最後に、今回の一連の記事を読んで、さらに修復的正義(修復的司法)という取り組みを思い出しました。以前、NPOでこの活動をされている方のお話を伺ったことがあったからです。
これについては、またもう少し理解を深めてから詳しく書ければと思いますが、TEDの動画がわかりやすかったので紹介しておきます。
私たちが検査した囚人は 扁桃体に問題がありました それで彼らが感情移入できなくなり 非道な行動へ至ったのでしょう
3,4歳までにほとんどの子どもが他人の意図を理解するという感情移入に欠かせないことができるようになります
扁桃体の欠陥があれば責任を回避されるべきだというのではありません。むしろその逆です。私たちの脳は変わり得るので、扁桃体に欠陥がある人は責任を持ってリハビリに取り組まなくてはならない。リハビリがうまくいく可能性の1つの方法が「修復的司法プログラム」を使うことです。
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