「私が呑んだくれて強暴するのは、ほとんど自己防衛からでした。昔から男にしては警戒されにくい体躯で無警戒に人が近づいてきました。それは手放しで助かると言えるものでなく、ある意味の期待だったのです。 「この人間は無害で柔和な賢人である」 とでも言いたげな眼差しが、たまらなく恐ろしかったのです。だから私は身に合わぬほどの酒をかっくらって、私は危険である、と警戒色を発するのでした。根っこから育ちの悪い愚かな人間でしたから、その正体を明かされるのが恥ずかしくて、もっと変わった人間なの
メルティキッスのごみが落ちていた。 ほとんど雪解け水だなと思った。 なんかこう、冬の象徴が形を崩す姿が。 わかるでしょう。 "言語化"ってなんだ。 自分や誰かの思っていること感じていることを文章にする操作だろうか。 そうだろうな。 世にはびこる"言語化みたいなもの"をあまり好かない。 だれかが乗りやすいように、耳心地の良いように、きれいな形に整えて 箱を用意してあげる。 "言語化"は物事の核を見ることが肝要に思う。 ただ言い換えたり、輪郭をなぞったり、例えたり、そういうこ
銀杏はその姿が彼方古くから変わらないという 日々移りゆく景色を横目に 変わらず立つのは怖かろうに
芸術とはフェチシズムを作品に昇華させることである。 それは絵でも彫刻でも文学でも音楽でも同じこと。「赤、青、黄のコンポジション」に高値がつくのはフェチシズムゆえだ。仮に芸術家の名前で作品が売れるなら、それは大衆的なブランディングとは違う。人々はそのフェチシズムと昇華方法に高値をつけるのだ。絵が上手い、彫刻が上手い、作文が上手い、そんな人がいてもそれをフェチシズムを表現するための道具として使わないなら芸術家ではない。ただの絵が上手い人、画家かもしれないが芸術家ではない。作品へ
私はよくこの宇宙の裏側に落ちてしまう。 裏側といってもそれが正しい表現なのかは、数学にも物理にも疎い私には分からないが、別世界にどぷんと入り込んでしまうのだ。 私はなんとなくこんな妄想をしてしまう。例えば2次元の宇宙があったとして、それが私たちの世界における球の形をしていても、その宇宙に住む人々には理解することはできないだろう。私たちと同じように、この宇宙の果てとその外側はどうなっているのだろうと考える。私たち3次元の民は4次元における球の上で生きているのではないだろうか
夢とはレム睡眠中に見る幻覚のことである。 私は夢をよく見る方だと感じる。 昔から豆電球をつけて寝るし、昼寝することも多いためか、夜の睡眠の質が悪いのかもしれない。 最近は音がないと眠れず、ゲーム実況やら雑談の動画なんかを流して寝る。この問題はより深刻になってきている。 意識すれば悪夢を見ることはないが、毎日意識して寝るのも馬鹿らしく思え 夢は夢だ と私らしい怠惰な解決法を見出している。大抵は目を覚ましてから ああ夢だったんだな と思うばかりで、夢の中で これは夢だ
俺は優秀な人物だ。 そして周りの人間なんてとるにたらないゴミだ。 昔からなんでもそつなくこなすタイプで、運動も勉強も人付き合いも、頭ひとつ分抜けて上手かった。自信過剰だと罵るかもしれないが、そういえるだけの努力をしてきたし、必要とあらば他人を蹴落とすこともしてきた。 社会は落とし穴だらけだ、深く深く、小石を落としても反響がないほどの穴。 自分の行きたい道を歩むために俺は、他者をその穴に突き落としながら進んできたのだ。 社会は良い椅子を人数分用意してくれるほど甘くはない。今
「人民の」 黒板の消し残しにどうしても目をやってしまう。 先生は気にならないのだろうか。しかし、ノートが汚いことを咎めないのだから、僕もここは目を瞑ってやらねばなるまい。 それにしても退屈だ。 テスト前日の一夜漬けでなんとかなってしまっている現状、普段の授業に身が入らない。余計なことを考えてるうちにもう残り10分。しかしこの10分が長い。気づいてしまうと長く感じるのでいつもは時計を見ないように努めているのだが、例の「人民の」が黒板からはみ出さんばかりに上の方に書いてあっ
好きな言葉をいかにして好いているかを私自身も見つめ直しながら、長々と語っていきたい。 今回は「金ピカの赤井さん」だ。これは江戸川乱歩の推理小説「何者」の章題の1つである。赤井さんというのも当然その登場人物だ。詳細は省くが、この章で赤井さんは金色の粉を身体中にちりばめて現れるのである。それゆえこの小説を知らない人には、この言葉は全く意味の通じるものではないだろう。しかし私がこの言葉を愛する理由はこの小説にはほとんど関係がない。むしろ読んでいない人にこそ新鮮に感じとってほし