表現者は魂の露出狂
表現者というのは、魂の露出狂だと思っている。
私を見てほしい、くまなく見てほしい、見せていないところまで想像して私で頭をいっぱいにしてほしい。
とにかく見てほしいのである。
見られることの快感たるや何物にも代えがたい。
そうして、見ている側のどんな反応もまた快楽に結び付く。
うっとりみられる、賛辞を贈られる、冷静につくづくと眺められる、醜悪なものを見た、と言わんばかりに露骨に顔を背けられるのもまた良し。
得られる反応は全て嬉しい。
何の反応もないのが、一番悲しいのである。
自分の全てを見てほしいと願っているが、他人のも見たいかというと表現者によるのでそこはなんとも。
なにも書くことへ執念を燃やしている人ばかりでない。
表現する人全般に当てはまるのである。
未熟な時代こそ、この露出狂の熱の放射が一番酷くて、泣きわめく赤子と同然。
その道数年、という猛者になると、よりよく自分を見せるための技術が付いてくるから、見せていないところまで想像させることができる。
露出狂の熱も上手いことコントロールできるようになる。
それ以上になってくると、年ふるごとに妄執の域に入る。
たいていの人は頭が冷静になって、この妄執の域にまでは来ない。
だが何十年もやっていて、まだ見てほしい云々抜かしている者はタダモノではない。
ただの病人か、プロかの両極端に分かれると思う。
そして「ただの病人」だった場合、妄念こそ凄まじいが、実態はもう石像である。
他人に飽きられる、見向きもされなくなる(だって妄念の石像だから、一瞥しか与えられないのだ、見る側も)。
それでも美しく石化したのなら、まだ珍しいものとして見られようが何度も言っている通りその実態は妄執の化け物なので、それが石化したら醜い石像でしかないのである。
と、ここまでいやに具体的に書くなと思った方は鋭い!
私は詩を書き始めて約30年なんですよ、びっくりです。
醜い妄執の化け物の石像って私を客観的に見て、書いただけ。
だから具体的。
ただねえ、美しい石像になった妄執の化け物って、私知らないのですよ。
それこそプロフェッショナル以外は。
なぜ私たちは露出狂になってしまったのか。
一番一般的な理由として、機能不全家族だった場合、かな。
私も含め、なんらかの精神疾患を両親の仕打ちのせいで病んでしまって、何十年経っても治せないほど深く傷つけられてしまった場合なんかがごく一般的なんじゃないかな。
恐ろしい理由を「一般的」と言ってますけど。
もちろん一般的は一般的であって、そうでない理由を持つ人々も大勢いる。
ただどういうわけか、病んでる場合がやたら多い。
この病みが露出狂にさせてしまっているのかもねえ……。
追記
【お詫び】
まず本作に関して、勘違い甚だしいところがありましたので、謹んでお詫びいたします。 私以上に長く詩を書いていらっしゃる方でも、尽きることのない瑞々しい感性をお持ちになり詩作に向かってらっしゃる方々に思い至りました。 多分私は少し疲れていて、それで石のように固くなってしまった感性で周りも同じだろうと決め付けてしまっていました。 非常に失礼なことを書いてしまいました。 申し訳ございませんでした。