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人殺しの心理

字が読めるようになった頃から家庭・学校の環境から、現実逃避するために読書に耽溺していた。
主に読んだのが、ファンタジーと推理ミステリ系。
ファンタジーはまあ現実逃避するのにうってつけだ。
けれど、推理ミステリ系はなぜあそこまで執着して
読んでいたのかということを疑問にも思わず、ひたすら読み続けた。

ざっと30年以上、推理ミステリに耽っていたことになる。
40歳近くになって文学に目覚め、それからは推理ミステリはあまり読まなくなった。

最近になってふっと気が付いた。
私は推理ミステリの小説から、人を殺す心理を探していたのだ、と。
人を、には自分も含まれている。
他人を、自分を殺す心理とはどんなものだろうということを必死に探していたのだ。

私とそれなりに長い付き合いがある方には、またか、と言われそうだけど、家庭でも学校でも「死ね」と言われるような仕打ちを受け続けてきた私は、小学校低学年から死にたくてたまらなかった。
今から約50年前には、子供が自殺するなんてニュースどころかリスカという言葉さえ無かった。
その中で私はある一時期学校帰りに、団地の最上階に上って10歳でもなんとか乗り越えられそうな柵を握りしめて生きる恐怖と死後の恐怖を泣きながら秤にかけていた。
実家はとてもそう見えないけど熱心な仏教信者だったから絵本で読んだ「じごく」、取り分けて自殺した人間は、永遠に等しい時間拷問にかけられるという死後の恐怖さえなければ私は全く悩むことなく自殺していた。
手首を切る、という行為は知らなかったけど母の仕打ちに手のひらをカミソリで切ったこともあった。

だから、自殺する人間の心理を代弁してくれる言葉が欲しかったのだ。

そして、自分の周囲の一生憎み恨む人間を殺す心理を、動機とその心理を、やはり仲間を求めるように欲しがった。

ちなみにまだ実家にいた頃、普段来ない父が私の部屋へやって来て本棚を眺め「気色悪ぃ本棚だな……」と吐き捨てたことを執念深く覚えてる。あんたのための本棚なのになあ。

それら推理ミステリへの執着をなぜ手放したのかというと、11年前にマンションを買った年と一致する。
今までの賃貸という仮住まいではなく、紛うことなく「自宅」を手に入れた。
つまり約20年前と同じように夫と別居する可能性がぐっと低くなったから、夫が覚悟を決めてくれたから、家を買ったのだとそれは無言の中に約束されたようなものだった。

加えて心療内科の最終兵器、筋肉注射を打つようになってこれまでになく精神状態が安定した。
あくまでそれまでと比較したら、の話だけど。

それで人殺しの心理を追い求める心境から、もっと全般的に人間心理を知りたくなり、文学の方に目が向いた。
そして皮肉なことに、あれほど求めて得られなかった人殺しの心理は、文学の方面にあった。
外国文学の方が性に合っているけれど、有名な日本文学を読んでそのあまりの素晴らしさに目を剝くこともある。
太宰は中学生の頃から私の聖書だ。(その割には人間失格と幾冊以外は読んでも内容を忘れてしまっているけど)

つまり結論として、人殺しの心理を追い求める切実な心情環境を脱したと思われるところに、ご褒美のように人殺しの心理が描かれている本当のジャンルが分かったという話。
ご褒美というか皮肉というか……。

殺したい、という心理は未だ私の中に根強くあるけれど、それはいますぐでなくても良くなった。

おわり