二元性を超えて 〜赦しの実践〜
どうも。今日も奇跡のコースの赦しの実践での気づきを書いていきたいと思います。
コースは神に至る純粋な非二元論と言われています。純粋なというのは、神以外実在しない、それ以外のものは存在していないということです。神はこの世界を創ってないので、この世界もないということですね。
そして、非二元ということは、良い悪いといったような二極の考えがないということです(レベル2で考えると)。
それなのに、私はコースの赦しの実践を通して、良い悪いという二元の考えを取り入れて赦しの実践をしていなと、ある動画を観て、ハッと気づかされました。
たとえば、愛を選べない、兄弟のキリストを見たくない(ハローと言いたくない)、真実に抵抗がある、そういう私はダメだという、良い悪いという二元の価値判断のある見方で、赦しの実践をしながら密かに自分を裁いていたなと。
赦しをするということは、その良い悪いの二元性を超えた、それを上から眺める一(ひと)つの視点、全てを良しとする視点、それを練習していくことなんだと。
だから咎めずに自我を見るということなのか!と繋がっていることに驚いた。聖霊は、正しい見方はそこから見ている。それを赦しという実戦を通して学んでいるんだなと。
でも、そもそもコースは愛を選択する教えじゃなくて、愛を遮っている障壁を取り除いていく教えなので、その障壁の方を見ないといけない。私は根本的にコースの教えを間違った形で理解していました。
自我を咎めずに見ていくとわかる。愛や平安なんてそう簡単に選べないと。でも、自我を咎めずに見ること自体が聖霊と共に見ることであり、赦しを行なっているということになる。
その愛の障壁となっている自我を咎めずに見てくと、罪や無力さ、欠乏感に惹かれてる自分、自分が消えてしまいそうな恐怖、愛という未知なるものへの恐怖、神への恐怖がどんどん自覚されていく。そこを見ていくんだと。
そこを咎めずに見ていく。
咎めてる自分も良しとする視点。聖霊が見ている一(いち)なる視点。良い悪いもない、すべてを良しとする視点、すべてを同じとして見る視点。
それを練習していく。
コースは一元論の教えだということ。コースを学習するにおいて、そこはちゃんと忘れずにいたいなと思いました。