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明けました。おめでたい……。
おとといの夕食の鮭のロール白菜が、はちゃめちゃにおいしかった。どうもその日の午後あたりから調子が上向いてきてたみたい。
翌朝、すなわち昨日の朝の、目覚めの感触もいつもと違った。重たくどんよりした感覚がなくなってた。目が覚めてから起き上がるまでにかかった時間はたぶん前日と同じくらいだったけれど、それは重たさとどんよりさがないことの嬉しさと幸せをつくづく噛みしめてたからでした。
「ああ、明けたんだな」と思った。こんなにはっきりと違いを自覚したのは始めてかも。
今回不調に陥ったのは、自分にとっては分量・納期的にキャパオーバー気味な文字起こし+翻訳案件を連続で請け負っていたときで、3本目に取り組んでいた11月初め。その仕事をかろうじて終えてからずっと、たくさんのことを思い切って休んだし、心身もなるべく休めるようにした。基本家にひきこもって過ごす中で、やれそうなことには取り組んだし、仕事や「楽しいこと」も少しはやった。
ただずっと低調なまま動いていたふうで、ここ最近は「自分の心に自分で触れない」感覚をずっと自覚してた。笑うときも、嬉しい、楽しい、おいしい、とかの言葉が口を出るときも、それは嘘なんかではないんだけれど、どこか自分の心の底のほうはしんとしているようなふうだった。
それがおとといの鮭のロール白菜は、おいしさに心が動くのが実感できた。自分は牛肉を食べないけど、上等のステーキを食べる人はきっとこんな感じで心が動いているんだろうな、と思った。好物のお魚のごちそうをついこのあいだ、誕生日祝いで食べさせてもらったばかりだけど、そのときおいしい、うれしいと思ったときにはここまでの実感はなかったな、と思った。
それで、もしかして鬱になると味覚も全般的に変わっちゃうのかも、と初めて思い至った。
今回の不調期間は、今までのと違ってた。今までは、自分の身体のまわりを厚み40センチくらいのアクリルの壁みたいなものがとりまく感覚で、世界のあらゆることが遠のいて、何にも、新しいことにも今まで興味や関心を持ってきたことにも、まったく心が動かなくなるふうだった。味覚・嗅覚の異変もあったけど、わりと数日だけの異変で、異臭のないところで自分だけ異臭を感じたり、何を食べても苦かったりと、とてもはっきりした異変だった。
今回は、新しいことや今まで興味や関心を持ってきたことに対して心が全停止することはなく、コンスタントに小さな(中くらいの?)意欲は持てていて、それなりに思い切って動くこともできてた。ただ体力気力が持続しなくてすぐ休む必要が出てしまうのの繰り返しだった。食事の味わいもちゃんとあって、異臭や苦みに苛まれたりはしなかった。日々の最低限のルーティーンは崩すことなくこなせていて、そんな日々の中で、定期的に瞬間的に希死念慮が最大風速になった。
いつもの不調期は寝込むしかない代わりに短く終わるのが、今回は長かった……。はたからみたらまったく普通に暮らせているように見えていたと思う。でもことあるごとに「人生詰んだ」と思って、自分の心に自分で触れない感覚も続いて、周りと関わる中でのいろんなことも痛くて、しんどかった。
晴れて不調期が明けてみて、物理的にやってることは今までと同じなのに、質がまったく違うのを実感してるけど、たぶんこれははたから見たら違いがわからないレベル……。
ただただ、主観的な喜びと幸せの感覚が、違う。心の中に雨雲が居座っていなくて、陽が射してて風通しがいい。昨日も窓際で書き物をしていたら、シジュウカラの仲間たちが来て、おしゃべりしつつ1メートルくらいそばまで来てくれたりして、手をとめてその姿を眺めて、静かな嬉しさに包まれてた。その後すぐ、ちゅるるると鳴くメジロがそばまで来てくれて、また嬉しさのさざ波が寄せた。自分の心にアクセスできてる。心の底が動いてる。
仕事のこと、家のこと、将来設計のこと、人間関係、いろんな「やらなくちゃいけないこと」「考えなくちゃいけないこと」に疲れ果てていたのが、今はなんとなく希望を持てていて、以前よりは前向きというか楽観的に居られてる。
不調期に入る前は、「悪いことがあった」「残念なことがあった」ときに、「ああ、これで望みが叶う、自分の思ってたのとは違うルートで」と思うのが常だったのが、不調期のあいだはそんなふうには到底思えなくなってた。それが昨日は、具体的に何だったか忘れちゃったけど、ちょっとした残念なことに対して、押しつぶされる代わりに、「これでむしろよかったよ」と心から言えた。そのとき、ああ、こんなふうに思えた、と思った。
とにかく今ははっきりと、潮目が変わったんだ、と実感できていて、しかも不調だった時期の記憶もしっかりあって、それがいつもと違う。明けたことがじんわり嬉しいし、不調期のあいだずっと支えてくれた相方の優しさが沁みる。本当にありがとうの気持ち。家族や友達、仕事で助けてくれた人たち、いつもここにいてくれる自然界の面々にも、ありがとうの気持ち。
不調が明けて、いきなりフロスロットルな感じではなくて、ゆったりしているのもいつもと違うかも。
そして初めて、鬱は守ってくれていたんだな、と感じてる。「がんばればやれる」とばかりに無理して酷使した身体と、さまざまなことに小さく傷つき続けて擦過傷だらけになった心に、一旦休んで癒えるための時空間を確保していたんだろうな。
無理してはだめですね、やっぱり。チャレンジが必要なときもあるけど、チャレンジしたあとはちゃんと休むこと。幸せとは、わたしにとっては、野鳥の羽ばたき音を心で聴けて、嬉しいなと思えること。羅針盤をそこに合わせて、ペースを調整していきたい。
鬱はしんどいけど、死にさえしなければ守り神であることも、覚えていたい。