新聞白旗2号 20200921記
ちまたは連休。わたしはいちおう平常運転。だけども昨日はひさしぶりの友達がおうちに遊びにきてくれて、他愛もない話をえんえんとしたり、占星術をみてもらったりしていたら、すごくゆるんだ。ゆるゆるタイムのかけがえなさを実感した。今の自分の幸せとは、そういうところにあるんだな、と思った。
なにかを成し遂げよう、とかしていないところに。
昔、ある知人の幸せの定義を聞いてたまげたことがあった。幸せとは、できなかったことができるようになることだ、と言われて……。
えええええ。それが、幸せ??としばらく面食らって、そのあと数日から数週間、そして数年間、その定義についてなんとなく思いめぐらせてきて、今ではなるほど彼女のいいたいこともわかるような気がしてきた。人間の根源にある幸せのひとつかもしれない、確かに、と思うのでした。
でもそうやって、しばらく思いめぐらせたり、筋道たてて考えてみたりしてやっと「なるほど」と思う定義だった。つまり自分にとってはフォーリン(foreign)な定義。私という小国では、なじみのなかった定義。
ひるがえって、私という小国でおなじみの幸せの定義とは、光る水面のキラキラを縫って海を泳いでいくこととか。水底に波紋がゆらゆら光って映るのを眺めながらうつぶせに、あるいは青空を見上げながら仰向けに、水に浮いていることとか。星空の下で寝っ転がることとか。すーっとした風を受けながら畑で草取りすることとか。小鳥の羽根のはばたき音を聞きながら森の中に座っていることとか。
自分に何ができるかできないか、とはあんまり関係なく、何かを感受している状態を指すようでした。
何かができた!というときの快感も確かにあるのだけども。
でも身をとりまく場のすばらしさやおもしろさを堪能しているときの快感とは質が違うな、と。
アウトプットの快感とインプットの快感、なんだろうかな。両方幸せ感はあるけど質はだいぶん違う、という……。
おそらくは、最高の幸せは、この2要素が相互作用したときだろうな、と思う。積極的に働きかけるのと受け取るのとが相互作用しながら同時進行しているとき。木目の声をききながら、木を削っているときとか。
そういえば木削りをもう数カ月やっていない。コロナになって、いろいろあって、関わっているプロジェクトでいっぱいいっぱいになって……。でも少し前に、木削り屋の屋号で開いている自分のウェブサイトを数カ月ぶりに開いたとき、サイトに載せてあった木削り用のろくろの写真が目に入った瞬間に、身体の奥からうわあああーと、湧き上がってくるものがあった。びっくりした。愛、のようなもの?がほとばしった感じだった。
木削りをずっとがまんしている自分がいたみたい。日々の中で何を優先するかを考えていくなかで。
でも人生をだいぶ生きてきちゃったし、この先、そう長くはないように思うし、もうがまんの時期はすぎたのかもしれない気もしています。
生まれてきてしまったこと自体が罰ゲームのように感じて生きてきたところがあるけど、そろそろ償いは終わったと思いたい。いろいろやらかしてきたけども、がんばって償ってもきたと思いたい。
そもそも罪と罰パラダイムの世界の住人にいつのまにかなっていたこと自体、なぞだとも言える。悪意があるのが当たり前の世界なんてほんとうに実在するのかな。あるのは悪意でなく、苦境で、ひとりひとりの苦境がオリジナルだからゆえ共有されにくさがあって、ひとりでがんばるしかなくて大変になっていくように思うので……。抱え込まなくていいような雰囲気の世界だったら、罪も生まれないし罰も不必要な気がする。許し合うことももっと簡単になるんではないかしら。
損得勘定で人が動く、という前提も、おかしな前提ではないかな? 人の動力源としては、そもそも損得勘定よりも思いやりのほうが強力なんではないか? 損得の観念が発達する前の子どもにも、思いやりの観念はすでにあったりするような気がするのだけど。
空に餅を描いている感じだろうかな、これって……。白旗を上げるときは、いくらでも好きに空想していいことになっているので、それでよしとしますが💦
だからよその人についても、なにかがおかしなことになっている!と思ったときは、その人オリジナルの苦境はどんな感じなのか?と考えてみたらいいのかもしれない。なにかそこで、助け合えるところがほんとはあるのかもしれないし、ないのかもしれないけど。助け合えないのなら、何も変えられないのなら、せめて、許し合って、それぞれの道を明るく進んで行きたいものだーと思う。
自分の人生で、2つ、人の命に係わることで自分が”十字架を背負ってしまった”という自覚のあることがあります。2つのうちの1つは、20年以上前の出来事だけど、つい先月、そこに自分の罪悪感があったことを思わず知った。
職場で同僚が亡くなったときのこと。
酔った上司からよく罵倒されていた彼女。そのふたりならではの長い信頼関係があったからこその、さまざまな事情があったからこそのことで、上司の側にはどこにも持っていけないストレスを彼女なら受けてくれるという甘えもあったのもわかっていたし、彼女の側もいつも周りに対しては上司のことをかばって「ほんとうは優しいひとなのよ」と言っていた。私自身も上司が持っていた一本気や、専門の分野に関しての確かな腕と目を尊敬していて、ただどうしてもコミュニケーションは大変そうだったのはわかっていた。
そんな状況で、自分も若造で、何の介入もできずただいつも、その罵倒の現場に居合わせて見ているだけしかできなかった。
見ているだけしかできなかった。
そのことが自分の中で罪悪感になっていたことを、つい先日、知ったのでした。同僚の彼女はくも膜下出血で亡くなったのでした。あるとき突然記憶が混濁しだして、朝出社してきて、パソコンの電源をどうやって入れるのかわからなくなっていたり、ランチを食べつつはるか昔に終わったプロジェクトの作業について「まだあれが終わっていないけど」と話だしたりした。パソコンの電源の入れ方を教えてあげたり、そのプロジェクトはもう終わっていますからーと伝えたりすると、いつものように優しくにこやかに「あ、そうだっけね」と答えた彼女。けなげだった、ひたすらに。
脳内で出血がはじまって、記憶をつかさどる部分を圧迫していたんだろうと思う。その後彼女は倒れて、意識がなくなって、幾日も植物状態が続きました。
意識が戻ることなく亡くなった日、わたしはいつものように朝、家からバス停まで行ったらば、そこに立っていた大きな桜の木が満開で、ちょうど風が吹いて、桜吹雪がぶわーっと私の全身を包んだのでした。あんなに豪快に桜吹雪に包まれたのは、その前にも先にもなかった。そのとき、彼女が逝った、と思った。1時間半の通勤を経て出社したら、彼女が亡くなったという知らせを聞いたのでした。
上司はその後、お酒をやめた。そして数年後には会社も早期退職して、第二の人生を地方で始める、と、かの地に家を買ったところで病気がわかり、わかったときには助からない状況で、ホスピスに入ることになって、そこで他界しました。
わたしは絹の小布を縫い合わせた壁掛けを縫って上司の病室に持参して、そのときに少しだけ会ったのが最後になりました。声を出すのも大変な病状だったけれど、部屋を出る私に「気をつけてな」と言ってくれた。
そして上司が亡くなったときも、明け方夢の中で、彼の名前が電光掲示板のようなサインになっていてぺかぺか光っていました。わたしにまで、お別れを伝えにきてくれたことを思いました。
ただ見ている、のでなかったら、自分に何ができたろうか?と考えるとよくわからない。「これってどうなんだ?」と思っていることが起きていて、それをそのまま見ているしかなかったのは、このときが最初だったわけでなく、小学校4年のとき、担任の先生がいつも教室で竹刀をもっていて、ダウン症だと今では思うクラスメートの(と)くんを叩いていた。それを見ていたときのことも、思い出されてくる。
ただ見ているのでなかったとしたら、何ができただろう……?という問いには、やっぱり答えは出てこないのだけれど、そのかわりというか、だいぶん生きてきた今、「それってどうなんだ?」ということに出くわしたとき、動いてみるということをする自分を見つけている。
ただあのときの上司に、同僚の彼女を罵倒しなくちゃならなかった苦境があったように、(と)くんを竹刀で叩いていた先生にもおそらくこちらには計り知れない苦境があったろうと思うように、今の「どうなんだ?」と思うことをしている当事者のひとにも、なにかあるんだろうと思うから、どうにか、その孤軍奮闘をなおさら追い詰めるようにするのでない方向に行きたい……。
事情が全部詳しくわからないことに首をつっこんで、へんなおせっかいでしかないことをしている気もする。でもへんなおせっかいでうざいくらいでいいようにも思ったり。ただそれで勘違いでおかしなことをしたらいけない、と思うし、自分が疲弊してしまっても違うとも思うのだけど。
ただこれは自分の人生にとっての、ひとつの大事な試みであるな、と思っている。何かを成し遂げようとするでなくて、今いるところにいて、見えてくるものを感受して、そのときどきの働きかけをしていく試み。
自分にやれるだろうかな。受け取りながら働きかけること。働きかけながら受け取ること。そうするあいだ、自分と相手と世界とに、有為転変をみとめつつ、今いるところにいること……。