見出し画像

翻訳という作業についての、つれづれ

翻訳をするとき、そこにある文字を訳しているようでいて、どちらかというと文章と文章のあいだにある、文字になっていない〈空白〉の取り扱いに気を払っている自分がいます。

この文字になっていない〈空白〉によって、全体の流れが見えて、筆者の言いたいことの輪郭が現れてくるからです。

全体の流れによって、前の文章の語順と、次に続く文章の語順をどうするかを決めていきます。

ひとつの文章だけを取り出せば、語順を入れ替えても意味は同じ、となります。でも複数の文章のつながりをみたとき、ひとつの文章の語順の入れ替えで、大きく意味合いが変わったり、はっきりしたりします。

下訳時にはAI翻訳を便利に使っていますが、AI翻訳の精度がほんとうに上がった今でも、この〈空白〉の取り扱いは、人力でやらねばだなと感じています。

わたしは翻訳するとき、原文の色合いと訳文の色合いがかなり近くないと気持ち悪さを感じます。だから、わかりやすさのために意訳したり「超訳」したりは避けています。できるだけ一語一語全部を律儀に拾って訳し、原文の文章構成もそのままにして(長い一文でも二文に切り分けたりしないで)、なおかつ日本語で読んだときに崩壊しない文章(比較的自然に読める文章)を目指しています。

昔から、翻訳とは郵便配達みたいな仕事だ、と感じてきました。郵便配達員さんは、手紙を全部のポストに入れるまでは、仕事が終わりになりません。自分の翻訳も、一語一語を全部、該当する日本語のことば(というポスト)に入れ終わるまで、作業が終わりません。

こんなふうに訳すことは、とても効率が悪いのも自覚しています。そこまでしなくても、「これがこの文の言いたいことだな」という内容を、原文の言葉遣いや語順にこだわらずにざっくり日本語にすれば、もっと効率的に訳せるのは確かです。

あまりにも時間がかかるので、いつも情けなく感じつつ翻訳者人生を歩んできました。

どうして自分はこんなに、原文にこだわってしまうのか。考えてみると、やはり、自分自身の言いたいことを自由に言えなかった過去が思い出されてきます。自分の伝えたいニュアンスが伝わらないこと、が、痛かったこと。その土地の言語ができなくて、思っているままを表せなかったことが、尊厳のなさに直結しているように感じていたときのこと。

共通の言葉を持っていなくたって、表せなくたって、伝えたいこと、感じていることはたくさんあるのに、という気持ち……。

そんなところから、なるべく丁寧に訳したいという初期衝動が来ているようです。が、それにしても効率も悪いし、気力体力も削られるやり方なので、1日にあまり多くを訳せません。

訳すのにこんなに時間がかかっても、読まれるときはあっという間です。

料理と似ているかも、と思ったりもします。料理は、仕込む時間・作る時間に比べて、口に運んでから飲み込まれるまでの早いこと……。

料理を味わって食べるように、訳文も味わって読んでもらえたらいいな、とは思うけれど、情報化社会の今、文章は味わうものでなく、摂取して意味を取り出すためのもの。なるべくスピーディにストレスなくこの「意味の摂取作業」ができるよう、いろんな工夫がされている世の中です。

でもまあ、自分には、こういうふうにしかできないというか、こういうふうにしかしたくないという衝動が強いので……、水のように自然に読める訳文を目指すと同時に、読む人が少しでも足を止めるというか、意味の摂取を急ぐよりももうちょっと、合間合間から意味合いが浮上してくるのを待つような感じで読んでみたくなるような、そういう訳文を目指して、これからもやっていこうかと思っています。






いいなと思ったら応援しよう!