社会的に生きる詩人に宛てた手紙
拝啓、社会的に生きる詩人へ
見知らぬミシルという人
私は言葉愛好者である。人間の思考・思想、考え方、その経緯に酷く強い愛着を持つ。陶芸家の母を持ち、詩、小説、文学、書道、華道、茶道、音楽、写真、茶道を嗜むことを当たり前としてきた私にとって、芸術とは高尚ではなく、日常の久片であった。そんな育ち方をした私は、物心ついた5歳の頃から、自分なりの人生哲学を持っていた。本や図鑑を読むことが好きで、保育園を卒業する頃には常用漢字を読むことが出来たし、多くの人の言葉の小さな欠片を集めて生きたいと願っていた。そんな私が、数年前に出会った詩人がいる。正確には彼のことを詩人と呼ぶ人は多くないであろう。しかし、理知的でありながら叙情的な言葉たち、そしてそのどれもが本質を突きながらも現実に足を下ろしていることを考えれば、「詩人」という他ない。「本質』という言葉はよく芸術分野において多用されるが、現実は『本質』に根付いた文化芸術というものは砂漠の中の真珠。文化芸術を謳う人間の大半は夢の世界の放蕩者であり、社会不適合を謳うことで美化しているだけの、空虚な理想主義者である。だが、本来の「本質」や「芸術」は、現実世界の中心に置かれるものではなく、現実世界の、日没と目の出、そう、片割れ時に寄り添うものであるべきではないだろうか。そういう時間を持つからこそ人間は、仕事や勉強といったケの日常生活を送ることができる。芸術とは、詩人とは、かくあるべきではないのか。私はそう、ずっと思い続けてきた。だから、そのための言葉を紡いできた。けれど、自分の周囲には相変わらずノイローゼに塗れた人間が彷徨いていた。そんな自分にとって、彼は光であり、闇であった。自分が追うべき理想の詩人のうちの1人であった。そんな彼の言葉に時に苦しみ、時に慰められながら万年筆で言葉を書き記してきた。自分の内面世界の勝さに嫌というほど向き合ってきた。勿論、今も完全ではない。だが、だがだ。今度は、自分の言葉で彼に恩返しをする番だ。これは使命である。私の生活と、文章と、私が既に出会う人間と、これから出会う人間への愛を以て、彼にいつか、私の素敵な人生の話を聞かせる為に。そしてそれを詩にする為に。今は幼き私が、以前はノイローゼで詩を書いていた私が、社会的な『大人』として真っ直ぐ真教な詩人になる為に、立ち上がる。その背中を押す愛すべき追い風へ、贈る海落うメッセージボトル。
追伸 愛について
愛とは何か。片想いか、片想いの間に寄せられた好意しか、つまり一方通行片道切符の好きという感情しか知らない私は、「彼氏が出来たことがない」ことが今もコンプレックスである。だからか、私の文章には肉感がなく、あっさりしている。ゆえに、そういうさらりとした文体が好きな人からすると本当に新きらしいが、いまいちよくわからない。もう少し、現実に足を据えた、肉感のある文章を皆きたいなと常々思う。
さて、愛とは何か。見知らぬミシルさんのツイートを見ていると、愛とは何かをいつも考えさせられる。自分は今まで、その人のためにした行動・向けた感情の全てが博愛である、と思っていた。この博愛は、人間として好きであったら、集団や社会への貢献のための愛であり、情欲を含む愛ではない。その為、情欲を合む愛はかえって、苛烈になりがちであった。それが、見知らぬミシルさんと出会う前の話である。今は、昔自分がむけていたものも愛であるが、独りよがりにならず、過去や未来を否定しすぎることなく、相手からも自分が差し出す分にも無理がない丁度良いところが「愛」だと世界を再構築する。自分が与えたい、それにより承認されたいという自己愛が強く落んでいるものは、愛ではないと知る。ゆえに、愛とは常にアップデートされていく、ものであり、意思である。ただ、一つ悩みがある。博愛は簡単だ、広く愛せば良い。ただ、本心を晒すのが苦手な私にとって、情欲の愛とは、非常に恐ろしいものである。自分のことを素直に自己開示し、こんなさらりとした自分にも熱い情欲が眠っていることにド正面から向き合ってみたい。しかし、情欲の愛は、どう扱っていいものか。喫緊の課題である。
敬具
言葉を失わせる詩人を目指す拙き文字書きより