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きっとただ、「さみしい」が言えなくなっただけなんだ

身内だったり、昔関わったことのある人だったり、いろいろですが。
世の中には一定数、
「相手を囲って束縛することで、自分の心のぽっかりを埋める」
という行動に向かうひとがいるように思います。

でもそういう束縛って、大体かなりの無茶振りで、無理難題で。
ちょっとしたヤキモチや価値観の相違、なんていうものじゃないし
要求を守っても守っても、次から次へとお小言はやってくる。

その「お小言」の理由だって、さもそれが常識のようで、正当かのようで。
いくら程度が過剰だったり理不尽であったとしても、そちらが正しいように見える理由がついてくる。
とても、悲しいこと。

叶えてあげることもしんどいけど、
叶えても、満足してもらえないことだって見えているから。
埋まらない心が透けて見えるのも、それもとても辛いから。


……多分、そもそもの「心のぽっかり」はきっとただ、「さみしい」。
ただ、それだけなんだ。

さみしさにもいろいろあると思うけれど、上記のようになりがちなのは
いろんな重圧に耐えながら生きてきたひとの、否定されながら生きてきたひとの
「置き忘れた自分」みたいなさみしさなんだと思います。

こんなふうでなくてはならない。
こんなふうにならなくてはいけない。
本来の「自分」など認めてもらえずに、受け入れてもらえずに、否定や罵倒はあっても絶対に褒めてなんかもらえずに
ひたすらに「こうあれ」という像ばかりが膨れあがっていく。
ついていけなくてがっかりされても、失望されても、ついに諦められても、
ずっと積み重なっていく、なれない「こうあれ」。
(もしかしたらそれもまた、理不尽だったのかもしれないけれど)

そうして、乖離した「ほんとうの自分」がどんどん取り残されていく。
ちっぽけなまま。いつかの日の、こどものまま。

それでも、「自分」を見てもらえなくってさみしいとも、
本当の自分はそんなんじゃないよ、とも言えずに。
もちろん「もう、無理」とか、「頑張れない」なんて、口が裂けても言うことは許されずに。


だから、大人になったあとの、そういった要求の理由が正当っぽく聞こえるのも当たり前だよね。
ずっとそういう「外側の理由」みたいなものに縛られて、その重圧と戦って、それに押し潰されながら生きてきたんだもん。
”そう”でなければ、何か”それっぽい理由”がなくては、自分の気持ちすら言えないほどに。

きっともう、自分が「さみしい」と思っていることもわからなくなっている。
さみしいってなんだっけ。
そんなふうになっているし、そう思うことも、きっと自分で禁じている。
心の奥底で。
だってそんな弱音を吐くことは許されてこなかったから。



ねえ、さみしい、って、思っていいんだよ。
口に出しても、いいんだよ。
弱くてちっぽけで、求められる「自分」になんか到底なれない、
そんなきみで、いいんだよ。よかったんだよ。ずっとずっと。






とか、偉そうに書いたけれど。
私だって、綺麗に生きてきたわけじゃない。
わたしのこと大嫌いな人もいると思ってる。

それでも、生きていかなきゃいけないから。
間違えても失敗しても、人生ごと投げ出したくなっても、そんな現在地の自分でいいんだと思います。
せめて、この先おんなじ間違いはしないように。

それくらいで、いいんじゃないでしょうか。

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