令和三年四月―五月 石川の旅(六)
ここまで書き忘れていたが、私は三日目の晩に延泊の手続きをとっている。本当は三泊四日の予定であったが、それではやはり足りなかったことに気付いたのである。岡山・香川旅行(令和二年三月)でも福岡・佐賀旅行(二年十二月から一月)でも四泊以上はしており、既にこれほどの日程でなければ不足する性質になってしまっているのかもしれない。今後も長期休暇が安定して取れる保証はないので、余り喜ばしいことではないのだが。因みに宿を転々とするのは非常に億劫であるので、いずれの旅行でも一つの宿のみを拠点としてあちこちへ出掛けている。
とはいえ部屋が確保されている保証はないので、「もし空いていれば一日延泊したいのですが」と恐る恐るフロントへ申し込んだのだが、非常に親切に対応してくれた。そして、コロナのために例年に比べれば安くはさせてもらっていますが、何分黄金週間ですので、五千円でよろしければ、と申し訳なさそうに言われた。特に異存はなかったのでその場で支払い、無事に延泊に成功したわけである。
延泊した理由は、天気予報で五月三日が晴れになると予想されていたからでもあった。この旅行の全日程が雨天であったのに、帰った翌日の三日になって急に晴れるなどというのは憤懣やるかたない。宿を変えてでも引き延ばす気に私はなっていたが、幸いその必要はなかった。
最終日にどこへ行くかはやや迷った。当初は東へ横断して富山の氷見市辺りまで行き、能登半島の反対側の海を眺めてみようかとも思ったのだが、考えてみれば金沢の代表的観光地である金沢城と兼六園に行っていない。三日目に訪れた四高からはそれほど離れていないので、そのときに行こうかとも考えていたのだが、前述の通り風雨が厳しくなっていたし、時刻も遅くなっていたので、迷うことなくその日は帰路についたのであった。
年末年始の福岡・佐賀旅行は、長篇小説の取材という確乎たる目的があったのだが、この石川旅行は必ずしもそうではなかった。だが考えている小説の案の中に、石川を舞台としてもいいと思われるものもあり、旅行の最中、それを意識して辺りを観察してもいたのである。そして金沢周辺が舞台になる以上、やはり念のためこの二大観光地は行くべきであるという結論に達した。尚、この小説が実現するかどうかはまだわからないが、もし書かれなかったとしても別作品のどこかで今回の旅行の経験は活かしたいと考えている。
さてこの日の朝、ホテルをチェックアウトして出ると、天気は快晴であった。久しく見なかった気のする青空を清々しい気持で眺め、初日と同じく金沢駅のロッカーにキャリーバッグを収納した。その後、金沢城へ行く前に金沢文圃閣という、有名な古書店に行ってみたのだが、営業日である筈なのに何故か開いておらず、仕方なく諦めてそのまま金沢城へ向った。後で調べると結構変則的に開け閉めしているようなので、この日は運が悪かったのかもしれない。
しばらく歩くと、市場へ辿り着く。既に空腹を憶えていたが、そういえば北陸に来たのに魚を食べていないということに気付き、何か食べてみようかと思い立った。市場が入っている建物には複数の海鮮丼屋があったが、見てみるといずれの店も午前十一時からの営業ということで、まだ開いていない。他にも私と同じような目的で来たらしき観光客が大勢おり、所在なげに辺りをうろついていた。
私はこの時点でかなりの空腹であったが、十一時にはまだかなりの時間があった。それに最終日ということもあり、余り時間を無駄にしたくはない。同じ建物の地下へ行くと、殆どの飲食店がまだ開いていない中で、営業している「チャンピオンカレー」の店を見つけた。チャンピオンカレーは北陸で展開されているカレーチェーンで、調べたところによるとどろりとしたルーと千切りキャベツのトッピングが特徴なのだという。一応御当地の食べ物ではあるしここで済ませよう、ということでカレーを食べた。結局のところ、この旅行では三度もカレーばかりを食べたわけである。
それから改めて金沢城へ向った。案内に導かれて私が入ったのは、後で調べてみると黒門というところで、目の前には広大な芝生が広がり、その向うに城郭の建物が見えた。広場には大勢の観光客が行き来しており、この旅行では最も、多くの人々のいる場にやってきたわけであった。
石垣の上に聳える二の丸の光景は中々に壮観だった。やがて河北門に辿り着いた私はそこをくぐり、門の内部を見学できるということだったので中に入った。これまでにも幾度かこうした城郭建築の中に入ったことはあったので特に新鮮味はなかったが、そこを出た後も五十間長屋の中を見学した。この建物は復元でなく当時のままの貴重な建築で、内部の木材は天井から床まで、長い年月を経た、あの黒ずんだ光沢を放っていた。
五十間長屋はやや高台にあり、そこから二の丸を俯瞰することができる。ベンチがあったので私は腰掛け、実はここへ来る前に市場で買ってきた細長いカレーパンを食べた(本当にカレーばかりを食べているな、と改めて今思った)。二本買ったのだが片方はプレーン、片方は蟹風味というもので、いずれも中々に美味だった。
一通りのものを見終えると、時間も限られているので兼六園に向うことにした。コンクリ―ト製のレトロな橋を渡るとそこが兼六園の入口で、その手前には古い日本家屋の土産店が立ち並んでいる。土産物屋は好きなので、入園する前に物色してみることにした。ここへ来て初めて知ったのだが、金箔を使った品物がこの辺りの特産であるらしく、金箔を封じ込めた樹脂のペン立てや金箔そのものを土産物としたもの、更には金箔ソフトクリームなどというものまでが売られていた。珍しいのは確かだが金箔を食べたいという欲求はなかったのでこれは食べなかった。
土産物屋を廻ったが、私にとって目ぼしいものは余りなかった。その中に一軒、正面の硝子戸を締め切っているために客が誰もいない店があった。だが営業はしているようであるので、戸を引いて入ってみた。店の人もそこにはおらず、静かな店内を物色していると、昭和レトロな絵葉書のセットが幾つか売られているのを見つけた。デザインが気に入ったので何種類かを選び、更に古い北陸の観光地図も売られていたので手に取った。見るとかなりに古い品物で、市町村も無論平成の大合併以前のものであるし(精査すれば正確な年代も特定できるのかもしれない)デザインからして一九七〇年代から八〇年代のものと思われる。
こういう品物は実に私の好きなものであったので、これらを纏めて持ち、店の奥に声を掛けた。やがて女性が出てきたが、すぐには値段がわからなかったらしく、幾度か帳場と品物が置いてある場所を行き来して値段を調べた末に、金額を教えてくれた。これを購入して私は店を出た。
さて兼六園へ入場しようとすると、受付には長蛇の列ができている。これに並ぶのかと思ったが、引き返す選択肢はないので並んだ。だが予想以上に捌かれるのも早く、すぐに順番が来て入場券を買うことができた。
当然のことながら園内はかなりの混雑で、コロナ騒動などどこ吹く風という景気の良さであった。行き交う客はカップルや家族連れがかなりの数を占めており、人口に膾炙した観光スポットとして活用されていることが窺えた。
さてどこに何があるかもよくわからぬまま私は歩き出し、日本最古と言われる噴水や、池や滝や、樹や苔や燈籠やを見た。だが私には、庭というものに関する造詣は殆どない。一人で来ているとはいえ、周りにいるカップルや家族連れと大して目的に大差はないのである。確かにこの庭園が、庭園の亀鑑たる素晴らしいものであろうことはわかっているのだが、立派な庭だな、以上の感想を抱くことが、正直に言えば中々難しかった。或いはもっと歳を経て枯れればまた思うことも違うのかもしれぬが、少なくとも今の私からすればそうであった。
何か口惜しい気がしながらも一通り見て廻り、脚もかなり疲れてきたところで園を出た。ここから金沢駅まではかなりの距離があるのだが、例によって歩いていくことにし、途中でひがし茶屋街にも立ち寄った。ここは島田清次郎記念館があるにし茶屋街よりもかなり規模が大きく栄えていたが、観光客が非常に多く(行列ができている店もあった)また食事に関しても私の基準からして手頃なところがなかったので、特にどの店でも食事や買物はせずに出て、駅へと戻った。
このようにして私の石川旅行は終った。廃墟、海、文学館と、初の石川を堪能することのできた、非常に充実した五日間であった。次に北陸へ行くとすれば、行先は今回行くことのなかった富山辺りにするかもしれないが、その際は今回は食べることのなかった、北陸の魚を味わいたいと思う。
(令和三年五月三十日)
《石川旅行記・記事一覧》
第一回(出発、内灘海岸)
第二回(モテル北陸)
第三回(加賀観音、ユートピアランド跡)
第四回(にし茶屋街、室生犀星記念館、石川四高記念文化交流館)
第五回(石川県西田幾太郎記念哲学館、かほく市の海岸)
第六回(金沢城、兼六園)
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