諸星モヨヨ『待てど、暮らせど』感想

 諸星モヨヨ氏の新作短篇「待てど、暮らせど」に登場する、良太という少年はひどく奇妙、且つ、不気味な存在である。シングルマザーの友美の息子である彼は、「今年の四月から小学3年生」になる歳であるから、通常であれば歳相応の思考判断能力は具備している筈であるが、その精神年齢はさながら幼児同然である。
 彼が作中で何をしたかと言えば、転倒事件以後の一連の行動は勿論、店内で走り廻り商品を破壊、四度も外出前に母に頼まれながら最大風量でエアコンを放置、と、最初からその「ダメさ加減」は次々と描かれるし、玄関へ入った際に「靴を後ろに投げるようにして脱ぎ捨て」る描写などの細かい箇所にも、よくそのなっていない様は描写されている。
 その挙句、友美が叱責しようとすれば彼は叫ぶような泣き声を上げるのだが、これも「叫び声、いや狼の咆哮に近い。野性味あふれる、肺から絞り出すような唸り声」とその異様さが描写されている。しかし友美が無視をしてエレベーターに乗れば、「ぱたりと泣くのを止め、エレベーターへ駆け込んでくる」、そしてその表情には申し訳なさの欠片もない。母である友美でさえ、「そもそもそんな感情(註・申し訳ないという感情)あるのか」と疑うほどに、何を考えているのか全くわからない存在である。
 では翻って、母の友美に注目してみるとどうであろうか。息子の異様さに気を取られて見過ごしがちだが、彼女もまた、息子に気を取られる余り、野菜や生鮮食品、バッグに至るまでの一切合切の荷物を車内へと置き忘れてしまうという、大きな失態を犯している。息子と「結局は似た者同士なのかもしれない」との自覚もある通り、嘗ては人に頼られるしっかり者であったという彼女も、息子ほどではないにしろ、間の抜けたところがある様子である。
 この冒頭にある、「小さい頃からしっかり者として周囲に頼られて来た彼女にとって、誰かに頼る、助けてもらうという行為は一種屈辱にも近い感情を沸き立たせてくる」というのは重要な一文である。それが夫と離別した大きな要因にもなったと言うし、その上、「強く逞しく、頼るより、頼られる人間になれ、息子には毎日そう教えているはず」であるという。彼女の気の強さ、自信の強さがよく現れていると同時に、この短篇の結末を思えば、余りに皮肉な言葉である。また、最後のほうまで読めば、相当厳しいものであったろう友美の教育も、良太を更に萎縮させ、より「ダメ」な人間へと変貌させていったのではないかという疑いも湧く。何しろ、彼女は「育児に関しては並々ならぬ熱意」があるというのに、その結果というべきものが一切見えてこないのである。
 また、転倒後の「息子に対する激しい憎悪が心に渦巻き、彼は愚かしいことをしてしまったことを今後一生後悔するだろう、と奇妙な嬉しさまで覚え始めていた。説教をする新たな口実を手に入れた気分だった」という一節は、彼女の他罰的な傾向、やや歪んだ性格を示している。最初の場面からして「一刻も早く、息子を叱責したい気持ちで一杯」であったというし、叱責は最早、彼女にとって快感でもあったのであろう。
 しかし息子は、彼女が怒れば怒るほど、泣き叫び、耳を塞ぎ、逃避していく。何物をももたらさぬばかりか、一層、母子の分断を深めていったのである。また、細かいところを言えば、強い抵抗に遭って一部を残したとはいえ、「自分が小学3年生の時はこんなくだらないおもちゃなどで遊ぶことなどとっくの昔に卒業していた」として、息子の玩具の大半を捨てたことが語られている。とにかく理想像を押し付け叱責するばかりで、彼女にとっては息子の意思など、全然尊重すべきものなどではなかったのかもしれない。
 結局彼女はこういった場合に頼るべき夫を既に持たず、低能な息子に助けを求めた末、見事に裏切られたわけである。緊急を知らせるブザーも彼女は持っていたのだが、「友美は最初これを拒んで」おり、「彼女の母がこれだけはと持たせてくれたものであった」という。しかし肝腎のそのブザーを手元に置いていなかったことからも、こんなものに頼るまいという彼女の意思、過剰な自信が見て取れる。息子の異常性に目を逸らされそうになるが、この結末は、そうした周囲の助けを彼女自身が、気の強さ故に切り捨て続けてきた末路でもなかったろうか?
 そして、車椅子で転倒した彼女は必死に息子に助けを求めるが、彼は全くその危機に気付かぬ様子で、不思議そうにその様子を眺めたり、挙句の果てには母を放置してビデオを見始めてしまう。母の欠陥も右に示したが、それでもこの有様は異常というほかない。前半部で描かれた良太の異様さはますますこうして顕著になり、まるで小学三年生とは到底思えぬ行動の数々に、読者は困惑を禁じ得なくなる。こんな子供が実際にいたら、まずは昔で言う智慧遅れ、どこか智能に異常のある人間だと考えざるを得ないであろう。どこまでも自己中心的なその様、咆哮のような泣き声。そんな彼の姿は、どこか動物を思わせるものがある。それが果てしない不気味さをこの短篇に与えているのである。
 何を考えているのか知れない、何をやらかすのかわからない存在というのは、人間にとって最も恐ろしいものの一つである。彼の内部については、ただ謎というほかなく、奇妙な暗黒に包まれているのである。結局彼は、身動きのとれない母に対して直接的に危害を加えることはしない。しかしその代りに、一度出て行ったきり、「待てど、暮らせど」戻ってこないのである。そして物語は非情な閉幕を告げる。
 良太は何故戻ってこないのか、何処へ行ってしまったのか、という疑問は読者全員の脳裡に浮ぶものであろう。答は用意されていないから、これは読者の想像に委ねられるところである。しかし確かであると思われるのは、飛び出していった良太には、最早母を助けようというつもりは全くないであろうことである。厳しく自分を叱責した母から、ようやく解放されたという喜びさえ感じていたかもしれない。しかし彼がこのまま一人で生き延びていける筈もないので、やがては誰かに連れられて家へと戻ってくるだろうが、そのときには既に、友美のほうは手遅れとなっているであろう、というところまで私は想像した。
 付け加えると、今回の作品は、諸星氏のこれまでの小説の中でも、現実的な恐怖というものが最も克明に描かれている作品であり、新たにこうした境地にも踏み出したのかという喜ばしい読後感があった。人物は二名しか登場しないのに、その造型が実に緻密であり、素晴らしい出来に仕上っているといえよう。(令和元年十一月)

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