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令和三年四月―五月 石川の旅(一)

 四月二十九日、私は石川県への旅行に出た。去年の年末から今年初めに掛けて、私は九州を旅行したのだが、それが中々に満足のいくものであったので、時間ができたらまたどこかへ行こうと以前より考えていた。しかしいざ計画を立てる段になると、行先が中々決らなかったのだが、結局は北陸に決めたのである。理由については追々述べていこう。

 東京駅から北陸新幹線に乗り込み、車輛が走り出すと、私はいつもながらの旅の昂揚感に包まれた。愈々初めての北陸の地を踏むことができるのだ。因みに計算違いだったのは、二人掛けの席の窓側を私は取ったのだが、通路側に大学生ほどの年齢の一人の金髪の女性が乗っていたことで、私は車内で食すために駅でサンドイッチやおにぎりを購入していたのだが、コロナ禍のこの時勢ともなると隣席に他人がいる状況で食事をすることは憚られ、結局食べることができたのは確か富山で彼女が降りた後のことだった。
 私は旅の準備をするのが非常に遅く、宿なども前日に取るのが常例であるし、スーツケースに荷物を詰め込むのは当日の朝ということが殆どである。この日も金沢駅に着いたのは午後四時半近くであったが、私にしては早いほうである。宿(金沢セントラルホテル東館)へのチェックインは午後六時半としていたので、まだ時間があった。

 午後四時半は、冬であればかなり暗い時間帯だが、この季節はかなりの明るさである。コインロッカーにスーツケースを押し込んだ私は、まず日本海を見てみようと思い、金沢港口から出て歩き始めた。
 思えば記憶にある限り、日本海というものをまともに見たことが静岡生れの私はなかった。今年初めには福岡と佐賀に行き、青い玄界灘を眺めることができたが、あれは日本海に含めて良いのか微妙な位置である。いつも見ている太平洋とは違う、北陸の海を眺めてみたかった。それはこの旅の動機の一つでもあった。
 石川県というのは言わずもがな、日本海に大きく突き出している。北の一つの果て、というところまで私は行ってみたかったのだ。因みに最初は能登半島の先端である、珠洲市や輪島市への旅行を考えていたのだが、非常に交通の便が悪いことから断念した(電車が通じていない)。できることなら誰もいない、寂しい海というのを私は眺めたかった。
だが金沢駅の金沢港口から海までは遠かった。グーグルマップで確かめてみると、徒歩では片道四十分は掛かる距離であるという。バスに乗ってもよかったのだが、バスというものはローカルルールがややこしいのと(それが最大の乗りたくない理由)、北陸鉄道に乗り換えて河北郡内灘町へ行けば、比較的すぐに海まで行けることがわかったため、行先を変更した。これが結果的には非常に良かった。私の旅はいつも、このように行き当りばったりなものなのである。
 一旦金沢駅まで戻った私は、兼六園口から出て、もてなしドームという硝子のドームの下にある自動階段を下り、北陸鉄道の新金沢駅へと向った。改札口へ辿り着くとパスモが使えないことがわかり、紙の切符を券売機で買って乗車した(地元の岳南鉄道に似ているが、北陸鉄道には独自のアイカという定期券もあるらしい)。
 昔ながらの小駅といった感じの内灘駅を降り、海の方面へ向うと、「内灘海岸」という看板で案内があった。住宅街を歩き、緩やかな坂を登り切ると、曇り空の下、前方に白く霞む海が見えてきた。道路(のと里山海道)の高架下をくぐると、目の前に現れたのは広い砂浜だった。


 これほどに広い砂浜に接したのは初めてのことかもしれなかった。私の地元の富士市沿岸も、嘗ては堤防から望む海は広い砂浜を隔てた遙か彼方であったことが、昭和五十四年にゲラティック号が座礁した際の写真を見るとわかるのだが、今では堤防の向うは僅かな砂利の浜とテトラポットしかないのである。だがここには広大な砂浜が浸蝕されることなく残っていたばかりでなく、右手を見ると盛り上がった砂丘までもがあった。
 波打際に車が一台停まっているほかは誰の姿もない砂浜を、私は海へ向って歩き出した。空は一面の雲で、黒い水平線の上に、灰色のそれらの塊が重々しくひしめいていた。波打際に着くまでの長い道のりの間、多くの漂流物に私は出くわした。合成樹脂製の球体のブイ、樽上の発泡スチロールの塊などがあり、誰が刺したものかその塊の一つの上に伸びる竹竿には、赤字に白で朝鮮文字の印刷された布が結び付けられていた。
 私は波打際でしばし、北陸の海の光景を堪能した。関東の日常生活を逃れ、ここまで遠くの誰もいない海の沿岸までやってきたという気分が自分を満足させた。それから先程砂丘の上に見えた、海の家らしき建物に近付いてみることにした。
 近付いてみると驚いた。バラックという言葉の相応しい、その粗末な建物群は、一階部分が殆ど砂に埋もれている状態であったのである。トタンの屋根も所々抜けており、冬の間閉鎖されているだけというのみならず、最早廃屋と化した物件であることが認められた。更には、乗り越えることなど造作もない低いものではあったが木の柵にそれらの建物は囲まれ、手前には看板が幾つも建てられていた。
「撤去指導
 この建物および工作物、そのほか残置物件は海岸法に違反しています。すみやかに撤去して下さい。
 この看板を汚損棄損することは、法律に違反する犯罪行為です。
  石川県金沢港湾事務所〈電話番号略〉」
 ただの海の家だと思っていたものが、一挙に物々しくなってきた。とはいえそれは元は海の家であったことは間違いなく、飲食物のメニュー表が壁に掲示されていたり、コインシャワー、トイレ、などと書かれた表示などもあった。その上全体が悪趣味な毳々しい色に塗られていた。だが建物の存在自体が違法であるとなると、この海の家の管理人たちは勝手に堂々と建物を建造し、そのままなし崩しにある時期まで営業を続けてきたのだろうか? 市ヶ谷の皇居外堀を占拠している、あの釣堀の店のように。



 その後、宿に帰ってから北國新聞のウェブ記事などを調べてわかったのだが、この海の家は許可外の夜間営業を行い、近隣住民に迷惑を掛けたために石川県から平成二十八年、海岸の占用許可を取消されたそうである(参考:http://editorial.x-winz.net/ed-42821)。とすると、閉鎖されてから約五年ということになるわけであるが、その年月は建物の一階を砂が埋めてしまうほどのものであるのか。
 私が思い出したのは、安部公房の長篇小説『砂の女』である。あれは海沿いの砂丘にある村を訪ねた男が、砂の穴の中にある家に閉じ込められ、吹き付ける砂をスコップで除去する労働に従事しながら、村民の女と共同生活を送ることを強いられるという物語である。大学の授業で白黒映画も観たが、中々に美しい作品で、京マチ子も魅力的であった……が、目の前に立つバラックは毒々しく塗られ汚らしい。廢墟好きの私であったが、さほど魅力は感じなかったため、外観の写真だけ撮ってその場を後にした。
 因みに傍らにはコンクリート造り二階建ての古い小屋もあった。これは戦後に造られた米軍試射場射撃指揮所跡で、内灘闘争とも言われる様々な歴史にも関連するものであるそうだが、これは各自調べてもらったほうが早いであろう。扉も窓も堅牢に封鎖され、中の様子を窺い知ることはできなかった。
 金沢へ着いた当日は、このようにして終った。(続く

《石川旅行記・記事一覧》
第一回(出発、内灘海岸)
第二回(モテル北陸)
第三回(加賀観音、ユートピアランド跡)
第四回(にし茶屋街、室生犀星記念館、石川四高記念文化交流館)
第五回(石川県西田幾太郎記念哲学館、かほく市の海岸)
第六回(金沢城、兼六園)

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