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令和三年四月―五月 石川の旅(二)

 二日目の三十日、私が向った先は加賀市であった。加賀市というと加賀国の中心地であるように聞えるが、特にそういうわけではない。昔に加賀郡という名前であったのは現河北郡であるし、加賀国の国衙があったのも、今の小松市であると考えられている。加賀市がある地は嘗ての江沼郡であるので、本来であれば江沼市という市名を付けるのが自然であった。加賀市というのは、所謂僭称市名である。
 JR北陸本線の、動橋駅という小さな無人駅で私は降りた。イブリハシという非常な難読駅名である。駅前には古い石倉があり目を惹いたが、特に店らしい店もない田舎といった風情である。私はここから南へと三十分程歩き、国道八号線に出た。
 四車線ある国道の南側は緑が生い茂る丘となっている。実はここにこそ、私の目的地がある筈であった。それは「モテル北陸」という、日本最古のモーテルの廃墟である。名称からして「モーテル」(この言葉も余り使われなくなりつつあるが)という言葉が普及する以前という古さを感じさせるこの施設は、一九六〇年代の開業である(『月刊ホテル旅館』の一九六九年五月号に取り上げられている)。閉業時期については詳しくはわからないが、ネット上の廃墟探索記を見ると、二十年前より以前であるのは確実である。だが後に内部の残留物を見るに、平成を迎えてすらいなかったのではないかとも思われるのだが、後に述べよう。


 さて国道八号線を歩きながら私はモテル北陸の姿を探していたが、一向にそれらしき建物が見えない。余りに樹々が繁茂し過ぎているのである。最早廃業から年月が経ち過ぎ、嘗て車道を乗り入れる場所があったであろうところにも、延々と躑躅の花壇だけが続いていた。これは裏手へ廻るほうがいいだろうと考えた私は一度引き返して、八号線から南へ続く細い道へと入った。
 しばらく歩くと、魚の養殖が行われている池が見えてくる。ここまで来ると砂利道であり、右手には池、左手には小高い丘になっている林があるだけである。この林の中にモテル北陸がある筈なのだが、全く建物らしきものは見えてこない。やがて砂利道も途切れ、八号線が再び見えてきてしまった。
 ふと思い付いて、私はグーグルマップを起動し、地図を航空写真へと切り替えた。いかに樹々に囲まれていようとも、上空から見れば建物の姿は確かめられる筈だ、と考えたのである。携帯の画面に映し出された航空写真には、果して、モテル北陸に間違いない建物の姿があった。
 古びた灰色の屋上を見せるその建物は、先程私が見つけた石垣の内側辺りにあった。だが二十年以上に亙って繁茂した樹々により、完璧に覆い隠されていたのである。これで正確な場所はわかった。丁度私は林へ続く階段と、「見晴台入口」と書かれた看板が砂利道の脇にあったことを思い出して引き返し、その階段を上がっていった。国道側からはとても入れそうには見えないが、こちら側から辿り着くことができるのではないかと考えたのである。
 だが結果的に言えば、これは最も険しい道のりだった。ネット上の先人の探索記を見ると、皆潜入しているのは国道側からである。思えばそれらの殆どは二〇〇〇年代半ばの探索記であるから、当時はまだ樹々の趨勢も今ほどではなかったのかもしれない。だがいずれにせよ、現役当時の正規入館口であった国道側のほうが確実にましな道であっただろうことを、私はこのときに身を以て知った。


 この時点で私はかなり疲労していたのだが(日頃の運動不足も祟って)山道といってもよい道を登っていった。所々に看板があり、ここに幾つかの古墳があることを初めて知った。だがホテルの姿は一向に見えてこない。
 やがて私は道を外れ、ホテルの方向へと強引に草木を搔き分けていった。最早獣道も何もない場所を、枝葉やら蔓やらをどかしながら無理矢理に進んでいったのである。ここまで来たからには、最早引き返すわけにはいかないという思考である(危険な思考回路だな、と今初めて思った)。最早戻ることなどまるで考えていないような、滅茶苦茶な進み方を或る程度したところで、樹々の向うに白い壁と、硝子の喪われた真っ暗な窓の並ぶ、その姿が見えてきた。私はカメラを取り出して、現れた建物を写真に収めようとしたが、写真となるとまるで何が何だかわからない。それほど微かにしか見えなかったのだ。
 ともかく私は気力を奮い立たせて、建物のほうへと向っていった。まるでこんなところにホテルがあることなど信じられないという心地がしたが、後で考えれば現役当時でもここはホテル敷地外の裏手に過ぎなかった場所であり、整備などされていなくて当然であったのである。そんな道なき道を、私はひたすらに進んできたわけだ。
 やがて私は急な赤土の斜面の上に出た。辺りを見廻したが、ここを下らないことにはホテルへ辿り着けそうもない。意を決して傍の木の根を摑むと、そろそろと脚を降ろして、緩やかに滑り落ちようとした。そのとき足が滑るか何かし、詳しいことは憶えていないが木の根も手を離れるか何かして、私の身体は一気に斜面を滑り落ちた。滑り落ちた先には落葉溜りがあり事なきを得たが、背負った鞄も服も赤土まみれである。北陸まで来て一体何をやっているのかと、流石に思わざるを得なかった。
 だがホテルは既に目の前にあった。足元は悪かったが、先程までに比べれば何でもない。古い二階建てのコンクリート造りの建物が目の前に迫ったとき、私は感動を禁じ得なかった。


 私が辿り着いたのは、ネット上にアップして下さっている方のいる当時のパンフレットを見ると、倉庫棟と本館の接続部分の裏手であった。倉庫棟というのはやや粗末な作りで本館以上に老朽化が著しく、二階の天井が完全に失われていることが外から見ただけでわかった。両棟の接続部分は嘗て金網のようなシャッターが下ろされていたようだが、最早殆ど原型を留めていない。金属の支柱のような場所には太い蔦が幾つも絡みつき、過ぎ去った年月の長さを感じさせた。
 私は表へ廻った。見上げられるコンクリートの壁もあちこちが罅割れ、表面が剝がれ落ちている。建造から五十年以上、放置されて二十年以上が経つのである。最早遺跡のような、一種の風格のようなものすら感じられた。草木のために建物全体を見渡すことすらできないのだが、やがて私は正面玄関の前に出た。有名な「MOTOR LOBBY」の錆びた文字が掲げられているところである。嘗て車が裏手の一階ガレージに行くためにあった通路がその下を通っており、傍らに半ば扉の開いた、ロビーへの入口があった。
 私がこのロビーへ足を踏み入れたのは、天気のせいでかなり暗い時間帯であった。懐中電燈を持ってこなかったことを後悔したほどに、内部は暗かった。フロントの脇には年代物のレジスターが転がり、奥に階段があった。まず私はロビーの奥へやってきたが、そこで立ち止った。奥の部屋から物音が聞えるのである。
 がさごそと、人が何かを探して歩き廻っているような音が確かにする。この日の夜に、令月社のグループ通話で諸星モヨヨ氏に言われて成程と思ったことだが、廃墟に於ける恐怖というのは二種類ある。一つが幽霊など心霊的なものに対する恐怖で、二つ目がホームレスや肝試しにきたヤンキーなどの、実害的なものに対する恐怖である。このとき私を襲ったのはこの二つ目であった。ここまでやってくるのが難しい廃墟であるからまさか誰かがいるとは考えていなかったが、何者かが折悪しくやってきたときであったのか?……だが結果的にそれは、風が剝がれ落ちた天井板か何かを揺らす音に過ぎなかった。だがまだ恐怖の醒めないまま、私は二階へと階段を上がっていった(何故そこで引き返さず、更に奥へ行くのかという話だが)。
 二階は陰湿な一階に比べて明るかった。両側が客室であるので本来は全く光など射さない筈だが、客室の扉はほぼ全て開け放され、窓硝子も悉く失われているのである。だが明るいと言っても、ほぼ闇に近い一階と比べての話に過ぎない。私は奥まで長く続く、荒れ果てた薄暗い廊下を眺めた。風が吹くと、剥がれ落ちた天井の壁紙や合板やらが、一斉にゆらゆらと揺れ動く。文章にすると何でもないようだが、無音の薄闇に展開されるその光景は実に不気味で、私ですら気味悪い気分にさせられるほどだった。


 傍らに「特選名産おみやげコーナー」と古い書体で書かれた、硝子の飾り窓があった。モーテルというと現代のラブホテルのような印象があるし、一階のガレージに車を停めて二階へ上るというのも一昔前の典型的ラブホテルの構造そのものだが、実はモテル北陸はそのような施設ではない。階段を上がった先は客室ではなく廊下であるし、便所は部屋にはなく、廊下にある共用のものを使うしかない。更にこのおみやげコーナーの奥はレストランになっている。ラブホテルではないのである。
 ひとまず私はレストランの内部へ入った。恐らく閉業後に集めたのであろう、古い二槽式洗濯機が幾つか置かれ、片隅には食事中の客のためであろうテレビがあった。だがこのテレビも実に古い。つまみを廻してチャンネルを変える、家具調のものである。その横は廚房になっていたが、風化が進み過ぎて部屋の目的が実にわかりにくい。ネットの探索記を見るとまだそれぞれの部屋の面影はかなりに残っているのだが、それから更に十五年以上を経た今、最早当時の面影は失われつつあった(ふと思ったが、以前から「面影がない」「跡形もない」といった言葉は気軽に使われ過ぎであるように思う。これぐらいになってようやく「面影がない」ではないだろうか)。


 私は客室を一つ一つ覗いていった。窓がないために風雨に晒されている室内は非常に風化しており、あらゆるものが褪色して埃に覆われている。ベッドなども、マットレスが崩れたスポンジ状の灰色の塊のような有様となっているので、生々しさは最早ない。所々、黒電話の残されている部屋があった。内線専用のものらしくダイヤルなどはついていないのだが、それにしても古い。廊下に転がっている家具調のテレビには四足のものなどもったし、極めつけは部屋の一つの壁に掛けられた「ベクタージュークボックスヒット曲ベスト5 ビクタージュークボックスでお好きな曲をどうぞ」というパネルである。二十年前どころか四十、五十年前で時が止っているかのようだ。
 一番奥にはやや広目の和室があったが、これも残された調度などで辛うじて和室であったとわかる程度のものだ。一通り見た私は、階段の反対側へと向った。従業員出入口らしい扉があり、その奥には何故か受験参考書が散乱していた。一冊の奥付を見ると昭和四十九年である。その後発見した新聞の日付は昭和五十一年であったので、やはり昭和五十年代初め辺りに廃業したと考えるのが自然であるようだ。となると閉鎖されてから、実に四十年以上が経過していることになる。だが内部の設備を見るに、それほどの時間が経っていてもおかしくはなさそうだ。
 参考書が散らばる奥は廊下になっていて、倉庫棟へと続いていた。倉庫棟は先述した通り天井が抜けており、廊下の途中からは折しも降り始めた小雨が降り注いでいる。足元が不安であったが恐る恐る進み(そこで何故進むのかという話だが、やはり私も冒険心には抗えないのかもしれない)既に植物も育ち始めているその部屋へ行き付いた。木製の階段もあったが既に苔むして抜けており、下を覗き込むと暗い空間に雑多な残留物が大量にあるだけであった。
 そこから頑丈な本館へと慌ただしく戻って息をつき、最後に階下を見ることにした。雨は降り始めていたが空はホテルへ辿り着いた頃よりもかなり明るくなっており、登ってきたのとは別の階段からガレージの一つへ降りた。ガレージのシャッターは一つも残っておらず、ガレージの中は実に明るい。「車のカギは各自保管して下さい」といった看板があるほかは特に何もなく、そのほかボイラー室などを一応見てから、私はモテル北陸を後にした。


 ……だが、ここまでの道のりの滅茶苦茶ぶりからも自明であるが、戻る道は非常に険しいものだった。この辺りだったかと先程の赤土の斜面を見つけ出したが、雨で滑ることもあり登るのは容易ではない。木の根を摑み、別の木の根に足を掛けて、何とか這い上がった。這い上がってもその先には道などない。草木を再び搔き分けていったが、或るところでは茨に行く手を阻まれ、棘のある蔓を何とか強引に持ち上げて、身体を捻じ込むようにして通り抜けたが、そのときリュックサックやら服やらが、茨の棘に引っ掛かりピーという音を立てて私を戦慄させた。幸いにいずれも裂けてはいなかった。
 勿論まともな道に戻る間、傘を差す余裕などはなく、私はずぶ濡れの赤土まみれで、ようようにして先程の道へ戻ってきた。古墳の看板が見えてきたときには、救われた気持になったものだった。殆ど遭難に近かったのではないかと思う。
 尚、もう一度国道からモテル北陸方面を注意深く眺めてみると、確かに建物の姿は僅かに見える。とはいえ余程注意しなければわからないほど微かにしか見えない。車が盛んに行き交う道のすぐ脇で、人知れず朽ち果てている建物がある。そんな日常と非日常の境目に、廃墟の浪漫はあるのである。(続く


《石川旅行記・記事一覧》
第一回(出発、内灘海岸)
第二回(モテル北陸)
第三回(加賀観音、ユートピアランド跡)
第四回(にし茶屋街、室生犀星記念館、石川四高記念文化交流館)
第五回(石川県西田幾太郎記念哲学館、かほく市の海岸)
第六回(金沢城、兼六園)

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