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30 year of Break Core

『ブレイクコア・ガイドブック』と『ハードコア・テクノ・ガイドブック』の両方に登場する人物は何人かいるが、ブレイクコアとハードコア・テクノの双方で重要な活動をしていたのがドイツのDJ Tanithである。

DJ Tanithはハードコア・テクノを積極的にプレイした始めのDJの一人でもあり、「ブレイクコア(Break Core)」という単語を最初に使った人物として知られている。Tanithがブレイクコアという単語を使ってからもうすぐ30年が経つ。それに合わせて、今一度ブレイクコアの歴史について軽く纏めてみよう。

DJ Tanithはアシッド・ハウス・シーン黎明期の80年代後半にヴィースバーデンからベルリンに移り、ベルリンで最初のアシッド・ハウス・クラブとされるUFOにてレジデントDJを務めていた。
その後、1990年4月28日から1991年12月21日の間に東ベルリンで開催されていたTechno Raveの先駆けであり、多数のテクノ・シーンの偉人達を輩出した伝説的なTekknozidにTanithはレギュラーDJとして深く関わり、1991年3月にオープンしたTresorのレジデントDJにもなる。
主宰レーベルBashからはMijk van DijkによるLoopzoneと、TanithとMijk van Dijkのユニット9-10-Boyのレコードを発表。Tanithはドイツの最初期テクノDJであり、テクノ・カルチャーの創始者の一人とみなされている。

Tanithはブレイクビーツに強い愛情を注いでおり、ドイツで最初のテクノ専門誌とされる『Frontpage』にブレイクビーツに関する記事を寄稿するなど、ブレイクビーツの布教に務めていた。

そして、1992年6月12日にGymnastikにてブレイクビーツ・パーティーBreak Coreをオーガナイズする。諸説あるが、Break Coreという単語が最初に使われたのが、このパーティーからだと思われる。キットカットのロゴをパロッたフライヤーには「Have a Break! Have a Beat!」と書かれている。

Frontpage 1992
Frontpage 1992

1992年のDJ Tanithが寄稿したチャートを見てみると、Rotterdam Termination Source、Force Mass Motion、Rotor、A Homeboy, A Hippie & A Funki Dredd、Nitrous、Humanoidなどのハードコア・テクノとブレイクビーツを挙げており、当時のライブ録音ではMarc Acardipane関連のハードコア・テクノやSperminatorなどをプレイしている。パーティーBreak Coreでは、これらのハードコアとブレイクビーツのレコードがフィーチャーされていたと思われる。

Tanithはハードコア・テクノとガバも積極的にプレイしていたのもあって、ハードコア・シーンの最初期にも関わっていると考えられる。1999年には『He Never Lost His Hardcore Vol. 1』というハードコアのMix CDも残している。

僕が知る範囲ではTanithが、91~92年頃だったかな?彼のTresorパーティーのフライヤーで「ブレイクコア」という言葉を使った最初のDJだ(彼は恐らくUKブレイクビーツ・ハードコアと初期のダッチガバをミックスする自身のスタイルを指していた─これは素直に後のブレイクコアの美学の基礎となったといって差し支えない)。(DJ SCUD)

ブレイクコア・ガイドブック 上巻

1992年頃はほとんどみんながハードな音をプレイしていたからね。なぜなら、それはすごく新鮮で探求しがいのあるものだったからさ。Richie Hawtinですら、ガバみたいなプロジェクトをやってたからね。ほとんどの人にとってハードコアは電子音楽に脈々と続く革新性というモーターの中の新しいアイデアと技法の一つとして認識されてた。ただのサブジャンルではあるけど、ガバが成立したことによって、あらゆる人々がそれまでと違うテンポやグルーヴを受け入れたんだよね。(DJ Bleed)

ハードコア・テクノ・ガイドブック オールドスクール編

Break Coreが曲名として使われ始めたのは、1994年にドイツのOverdriveからリリースされたC-Tankの3rdアルバム『Nightmares Are Reality Part III』に収録された「Breakcore」と、同じく1994年にドイツのPlanet Core Productionsのブレイクビーツ・ハードコア専門レーベルWhite Breaks FrankfurtからリリースされたMiroslav PajicのSteve Shit名義の12"レコード『Volume 3: Sidekicks』収録の「Power Of Breakcore」の二つが挙げられる。

最初にブレイクコアという言葉を目にしたのは、White Breaks Frankfurtの3 枚目のリリース(Steve Shit -Volume 3: Sidekicks)で、その中に「Power of Breakcore」というトラックが収録されていたんだ。1992年にNetwork Recordsからリリースされた、Tronik House「Straight Outta Hell」のイギリス盤には、「Detroit Breakcore」というステッカーが貼ってあった。あとドイツ人DJ、Tanith が同じく1992年にBreakcoreというブレイクビート・クラブイベントを開いていた。(FFF)

ブレイクコア・ガイドブック 下巻

元々UKブレイクビーツ・ハードコアが好きだった人たちが、ガバ/ ハードコア/ ジャングルにハマって、さらに生々しくてエクストリームなものを求めるようになったことが始まりだと僕は考えたい。オリジネーターは誰だかわからないけれど、「ブレイクコア」というワードがタイトルに入った曲で僕が初めて手に入れたのは、フランクフルトのWhite Breaksのレコード。
1994年発売のSteve Shit 『Sidekicks』の中の、「Power of Breakcore」という曲。(Baseck)

ブレイクコア・ガイドブック 上巻

90年代中頃になるとブレイクコアという単語は、ハードコア・テクノ・シーンでブレイクビーツを多用したスタイルや実験的な要素の強いスタイルに使われ始める。日本でもハードコア・フリーペーパー『WAX』のディスクレビューでブレイクコアという単語が既に使われている。

1997年にDJ ScudはレーベルAmbushとMaschinenbauをスタートさせ、Christoph FringeliのレーベルPraxisはBase Force OneとSociety of Unknownsのレコードをリリースし、「ブレイクコア」という概念を具現化させて提唱する。以降、ブレイクコアはジャンルとして急速に進化し発展していった。

最初のブレイクコアはドイツのForce Inc. RecordsからリリースされたAlec Empireの『Suicide 1 and 2" E.P.』かな。でも、不思議なことにロンドンのChristoph(Praxis)のところに行くまで、ブレイクコアという言葉を知らなかった。Alec Empireがやってるのはまさに「ブレイクコア」だったのにね。俺はそれ以前にChristophやDead by Dawn、VFMシーンのみんなに「もっとブレイクを使うべきだ!」と促していたんだ。でも、今になって言うのも変だけど、4/4キックの暴虐性は、当時の俺達が逃げ出したいと思っていた現実だったんだ。ガバ・キックのレコードが次から次へと出てきて、俺達はうんざりしていた。誰がこの言葉を思いついたのかどうかは知らないけど、自然とそうなったんだ。ジャングリストが作ったんじゃなくて、ただのガバ・キックやジャングル・ブレイクを使ったディストーションだったんだよ。(Deadly Buda)

ハードコア・テクノ・ガイドブック オールドスクール編

以上、ざっくりとしたブレイクコアの歴史となる。

DJ Tanithには『ハードコア・テクノ・ガイドブック』でのインタビューを依頼していたのだが、残念ながら期間内に返答を貰えず断念した。ドイツにはブレイクコアの源流となるブレイクビーツ・ハードコア/D-Jungleのシーンがあり、独特の文脈が活かされたセンセーショナルなレコードとパーティーがある。いつの日か、Tanithに当時のシーンについて色々と質問をしてみたい。

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