59キロで勝っちゃったヴェルトライゼンデ。日経新春杯とテンポイント
JRAの新規定 負担重量の増加
今年2023年から、JRAの負担重量の基準が変わり、より重い斤量負担が強いられることになった。
その基準は各条件によって細かく規定されているのだが、大まかに言って古馬G1などの別定重量は基礎重量が58キロに統一されることになった。
その理由として、昨年10月17日に行われたJRAの定例会見では「騎手の健康と福祉、および将来にわたる優秀な騎手の人材確保の観点から」と述べられていた。
確かに、減量に苦しむ騎手は多い。
騎手になるには小柄であることが条件であり、JRAのジョッキーの平均身長も160cm前後であるのだが、それでも時速60キロで走る馬上では相当な技術と筋肉量が必要とされるため、体重制限は騎手にとって大きなストレスとなる。
先日も、西谷凛騎手がわすか20歳の若さで引退することが発表されたが、その理由も減量苦によるものだった。
今回の斤量設定の引き上げによって、体重制限がゆるやかになり、今までよりも多くの志望者にジョッキーへの扉が開かれることが期待される。
騎手の負担軽減とは別にもうひとつ、負担重量の加増には海外競馬への目配りがあるのかもしれない。
たとえばフランス凱旋門賞の規定重量は4才以上牡馬59 .5キロ、牝馬58キロと日本国内のレースと比べ負担が重い。
毎年凱旋門賞では馬場状態ばかりが日本馬のディスアドバンテージとして叫ばれるが、慣れない負担重量にうまく適応出来ていないという面もあるかもしれない。
負担重量変更についてのJRAの眼目は、海外のスタンダードに合わせようとするところにある、ということも考えられる。
ところで、競走馬の斤量はどのように決められているのか。
レースを見ていればなんとなく牡牝での2キロ差や、若駒と古馬との違いなどはわかってくるが、実際のところどうなのだろう。
調べてみると、JRAの負担重量の基準については、2010年のYahoo知恵袋にかなり詳細な記事があった。
この記事によると斤量に上限は決まっておらず、「むしろ決まっているのは“下限”で、上限は決まっていません。なおJRAの競走における下限は平地競走のハンデキャップ競走は48キロ」とのこと。
確かに、いくら軽ハンデ馬でも48キロ未満の負担重量は見たことがない気がする。
さらに平地競走については、「テンポイントの一件をきっかけに“強い馬に重く”から“弱い馬に軽く”へと徐々に考えが変わっていったこと。また別定重量戦は上限のある“グレード別定”が導入されたことで60キロ以上で出走するケースは極端に減りました」とある。
確かに近年60キロ以上で出走する例はほとんど見ない。
60キロ以上で出走したケースとして目につくところでは、2006年の札幌日経オープン(別定)にコスモバルクが62キロで出走し、2着と健闘している。
他には、2002年の京都記念に60キロで出走したナリタトップロードが勝利、2005年京都記念にヒシミラクルが60キロで3着、という例が思い出される。
まとめると、JRAここ三十年ほど負担重量は軽減していく傾向にあったのだが、現在に至って久々に重量加増に舵が切られたことになる。
1978年の日本経済新春杯 テンポイントの悲劇
こうした負担重量の規定変更のさなか、今年も日経新春杯が開催された。
馬柱が出来上がって目を引くのは、ヴェルトライゼンデの斤量59キロ。
酷量とは言わないまでも、近年ではかなり背負わされている感のある負担重量である。
昨年のG1ジャパンカップで3着に好走したこともあり、妥当なハンデだと思えなくもないが、明け4歳のヴェローナシチーが54キロに設定されていることを思えば、かなり重い斤量である。
(アフリカンゴールドも58キロを背負わされている。ハンデキャッパーが何を考えているのか、時々わからないことがある)
馬柱の中に、目立って斤量の重い馬がいる。
そしてそれが日経新春杯であれば、どうしてもテンポイントの悲劇を思い出さないわけにはいかない。
稀代のスターホースだったテンポイントは1978年1月22日、66.5キロを背負って日本経済新春杯に出走、4コーナーで左後肢を開放骨折して競走中止し、延命治療が施されたものの、3月5日になって蹄葉炎のため死亡した。
テンポイントは1976年クラシック組。「天馬」トウショウボーイ、「緑の刺客」グリーングラスとともにTTGと呼ばれることになる三強を形成し、幾多の名勝負を繰り広げた。
額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれたテンポイントは、クラシック最有力馬として期待されたものの、皐月賞、菊花賞ではそれぞれトウショウボーイ、グリーングラスに2着に敗れあと一歩クラシック戴冠には届かなかった。
しかし負ければ負けるほど、テンポイントの人気はむしろ高まった。
好レースを繰り広げながら、あと一歩頂点に届かない。そんなところも、テンポイントの人気をさらに高めることになったのかもしれない。
そして明け四歳、1977年はテンポイントにとって充実の年になる。
京都記念を59kg、鳴尾記念を61kgの斤量を背負いながら連勝し、1番人気に支持された天皇賞(春)ではグリーングラスらを退けてついに八大競争制覇を達成した。
まだG1の格付がなされていないこの時期、八大競走には格別の価値があった。
※八大競走とは、皐月賞、東京優駿、菊花賞の牡馬三冠。桜花賞、優駿牝馬の牝馬二冠。春秋の天皇賞、有馬記念の8つのレースのことを言った。
まだジャパンカップも創設されていない時代のことである。
夏の宝塚記念ではまたもトウショウボーイに敗れたものの、陣営は秋を立て直しに努め、総決算となった暮れの有馬記念ではスタートからトウショウボーイとマッチレースを展開し、ついに4分の3馬身の差で勝利した。
トウショウボーイから半馬身の差で3着に入ったグリーングラスと後続の差は実に6馬身。まさにTTGの三強の名に相応しい名勝負だった。
(引退し種牡馬となったトウショウボーイは三冠馬ミスターシービーを生むなど活躍。なおも現役を続けたグリーングラスは天皇賞・春、有馬記念を制覇し6歳で引退。TTGのレベルの高さを証明した)
そして年が明け、念願としていた海外挑戦を目標にしていたテンポイントは2月にイギリスへ向けて出発することになった。
ヨーロッパ遠征の壮行会の意味合いを込めて地元関西のファンにその勇姿を見せたいという意図から、京都競馬場での日本経済新春杯への出走がきまった。
だが、テンポイントに設定された斤量はなんと66.5キロ。67キロ以上であれば出走を取り止めようと考えていた調教師にとってはギリギリの数字であった。
テンポイントの前走有馬記念での斤量は56キロ。実に10.5キロの加増となる。
馬体への影響は、関係者も不安に思っていた。
当日の淀は肌寒く、時おり雪が舞うような天候だったが、馬場状態は「良」で行われた。
無難にスタートを決め先頭に立ってレースを進めていたテンポイントだったが、向正面から進出を開始し、エリモジョージらとの競り合いの中、第4コーナーに差し掛かったところで突如として左後肢を骨折し競走を中止した。
テンポイントの左後肢は開放骨折し、白い骨が皮膚を突き破って見えるほどだった。
競走馬がこれほど重度の骨折を負うと通常安楽死の措置が採られるのだが、テンポイントに何とか生き延びてほしいと、嘆願する電話が全国から寄せられた。
500キロの体重を4本の細い脚で支えている馬は、その一本でも骨折すると体重を支えきれず、生きていくことができない。
それが通常のばあい深刻な故障を起こした競走馬に安楽死の措置が取られる理由である。
しかし、このときテンポイントの関係者はそうした自然の摂理に抗おうとした。
JRAは33人からなる大獣医師団を組織し、テンポイントの延命措置に取り組んだ。
ジュラルミンのボルトで折れた骨を繋ぎ合わせ、さらに特殊合金製のギプスで固定するという異例の医療措置が取られることになった。
関係者にも、テンポイントを何とか種牡馬にしたいという思いがあったという。
しかし懸命の治療も虚しく、3月になってテンポイントは蹄葉炎によって死亡した。
最後まで安楽死の措置は取られず、自然死であった。
人間たちの行った懸命の治療も、結果としてはテンポイントをただ苦しませ、死なせるという結果になってしまった。
この事態はファンや関係者の心に強く刻まれ、「テンポイントの悲劇」と記憶されることになった。
先述のように、この事故があってJRAの負担重量は見直されることになり、今では60キロを超える負担重量はほとんど見かけなくなった。
(ちなみにテンポイントのWikipedia記事は非常に詳細かつ読み物として優れたものになっており、「秀逸な記事」にも選ばれている)
2023年の日経新春杯 ヴェルトライゼンデの強さ
さて、当方では斤量の懸念もあり今回は馬券購入を見送りつつヴェルトライゼンデを応援したが、私の心配はまったくの杞憂に終わった。
重ハンデを背負ったヴェルトライゼンデはスムーズにスタートし、好位につけてレースを進める。中京の長い直線の入口では、まだゴーサインが出ていない。
それからジリジリと脚を伸ばして、坂を上り切ってからはグイッと抜け出した。
強いね。強い。
2着につけたクビ差以上の強さを感じさせるレースだった。
GⅡとはいえ、ハンデ戦でキッチリ勝ち切ってしまうのは、そう簡単なことではない。ジャパンカップ3着は伊達ではなかったのだ。
59キロでの平地芝重賞勝利は11年ぶりという。
この勝利には、それだけの価値がある。
6歳馬だが、13戦しか出走しておらずまだ馬は若く、さらに能力が開花する可能性を秘めている。
ヴェルトライゼンデの馬名はドイツ語で「世界旅行者」という意味。
春は香港へは向かわず、次走は大阪杯ということだが、重ハンデでの勝利をステップに、世界へと羽ばたくことができるか。