次の春に

「次の春に、うちから湘南台まで一本で行けるようになるんだよー!」

中学生と見えるその女の子が嬉しそうに語ったのは、またも混み始めた通勤の小田急線だった。
彼女とその友達は、学校の話やきょうだいの話、昨日見たアニメの話をしていた。どこにでもいるありふれた、普通の中学生然だった。

次の春、という言い方を自分はしていただろうか。
私の中学生時代といえば、ガキの使いでヘイポーがひどい手紙を西川先生に読んでるのをケラケラ笑ったり、電車の中では吊り革で懸垂をやって周りのおばさまから笑われて、金井くんに「やめなよ」と言われたりしていた。語彙として「次の春」が出てくるわけもない。来年の4月、が関の山だ。
電車の延伸計画に詳しくないのだが、おそらく春といったら3月〜5月ごろで、計画は変わることもあるから幅をもたせているとも考えられる。そういった意味でもこの「次の春」は完璧な表現だった。

そして何より、「次」が当たり前にあるのが若さだとも思った。

年齢を重ねれば重ねるほど、事情もたくさん積み重なって次の約束ができなくなる。やれ仕事が体調が、親の病院が、家族が、など。次の春を平然と待っていられるような余裕も全能感ももはや、薄れてきた。
でもそれでも、春という単語の明るさや希望、期待感はなんとも嬉しくなるものだ。見習わなければと思った。来ることのない未来としても、春を待つことはあたたかなことだから。

※35歳になったので来年の春は年男です。いやだなあ

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